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「考える」というライフデバッグ



怨念と個人的テロリズム - 「石版!」


 昨日のエントリを書いてから、また頭がグルグルと言い出したので続きっぽく書いてみることにする――でも今回は具体的な事件から少し離れた話になると思うし、ちょっと込み入った話にもなると思う。以下は“コロッケが自動販売機で売っている国(通称、コロッケの国)”へ留学中の某氏と事件についての意見を交換していて思ったことである。

 昨日のエントリで私は「だれでも良かった」という陳述の恐ろしさについて書いた(この言葉についてはid:sumita-mさんがとても面白い分析をしている*1)。しかし、ここではその言葉がネタであるかどうかについては問わない)。その恐ろしさとは「誰でも良かった」=「私でもありえた」という可能性からもたらされている――「私でもありえた」からこそ、「事件に自分がまるで関係ない」と言い切ることはできない。

 そういう風に考えてしまうのは、おそらく私がアドルノ読みだからかもしれない。アドルノは『否定弁証法』のなかで「アウシュヴィッツで殺されたのは(ユダヤ人であれば)誰でも良かった」、「アウシュヴィッツ以降に生きるものは『偶然生き延びた』だけである。その生き延びたものたちは(のうのうと)生きていて良いのか」というようなことを言っている*2


 しかし、これは「大げさすぎ」あるいは「過敏すぎる」と批判されても仕方がない感覚だろう(アドルノがアレントからそのように批判されたように)。また、こんな批判の仕方もできると思う――そもそも「私でもありえた」ということは事後的にしか観察され得ないものである。「私でもありえた」ということは「私ではなかった」からこそ、考えられるのだ。もし本当に「私だったなら」、既にアナタは死んでいるはずだ。だから、考えても意味はない、と。


「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ! - ココロ社 ♪ほのぼの四次元ブログ♪


連載第九回 予期とは何か? - MIYADAI.com Blog


 「考えても、あまり変わらないのだから、考えずに積極的に行動したほうが良い」。「考えているとリソースを消費してしまうし、そもそもの行動がとれなくなってしまう。だから(根拠のない)信頼をより所にして行動をとったほうが良い」――実際に、こういった意見に現れた「効率の良さ」には頷かざるを得ないところがある。「こういう事件が起こる背景には社会の問題がある」と考えているよりも、迅速に行動をして、問題がある社会で決定権を握れる立場に立ってからトップダウン式に変革をしたほうがよっぽど効率的であるように思える。


 そのためには、やはり国会議員にならなくてはならない。しかし、私の父親は元自動車整備工で自称「先祖が平家の落ち武者」というしがないサラリーマンであって、国会議員になれるような素質は一切見当たらない。有名にプロレスラーにでもなるほか道はないだろう(アントニオ猪木、馳浩、大仁田厚……これほど政界に近い業界はない)。そのためには今から体を鍛えなければならない――しかし、私の伸長は176センチ。これはレスラーにしては小柄だ。ルチャに見られるような華麗な空中殺法でも身につけなくては……メキシコ留学も視野にいれておかないと。よし、今日からスペイン語の勉強もしておこう!


――じっと考えているよりかは、ずっとこちらの方が能動的で効率の良い「社会を変えるための手段」のようにも思える。やはり、ありもしない可能性などに「考える」ことはライフハックにはなりえないのだろう。「殺されるのは私だったかもしれない」という現実には生じ得なかった可能性について考えてばかりでは、恐怖を募らせ、さらにセキュリティへの不安を高めるだけである。


 もちろん「考える」ということ全般に積極的な意味を見出せない、というわけではない。テロリズム的な行為によっては、社会の構成員が行動をとるときの基盤となる信頼に対して傷をつけられてしまう。普段は忘却の彼方にあり、「秋葉原を歩いていても刺されるわけがない」という失われてから初めて気づかれる信頼が壊れてしまう(そしてそこで「秋葉原を歩いていても刺されることがある」という可能性が生まれる)。これは、ライフハックを行うための基盤にバグが発生した状態だ、と言うことができるかもしれない。


 そのようなバグなど、忘れてしまえば自然と解消されるだろう(そして、通常、多くの人がそのような手段を用いて新たな行動をすることができているのだと思う。恐ろしくなるのは、ほんの少しの間なのだ)。しかし、ここで「考える」ことによって、積極的にバグを解消する手段が見つかるのではないか、と私は思う――ライフハックではなく、ライフデバッグという積極的な意味を「考える」という行為に見出せないだろうか、と。具体的なことを何も提示できていないのが恐縮だけれども……。



信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム
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コメント

  1. バグに対して自らを一方的に「守る」のではなくて、原因を追及して「攻める」というのは大事な事だと思います。ノアのジュニアヘビー級の様な目まぐるしい投げ技の応酬には、お互いの「攻める」と「守る」のバランスがとても大事ですし。……まあ、それは置いといて。
    実の所、その「考える」という点が何かネックになっていて、誰しも「考える」事によって正しいデバッグが行われるのか(『正しい』という事は、実際には無いけれど)という部分なのです。
    例えばの話として、「考える」事によって「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「どこを歩いていても刺されることがある」や「(俺はどんな状況でも)秋葉原を歩いていても刺される事がない」、ひいては「秋葉原を歩けば、あの様なハプニングも見られる」のような都合の良い方向に変わってしまうのではないか。
    確かにこれは「秋葉原を歩いていても刺されるわけがない」という信頼は復旧されているけれども、それで何か「刺されない」以上の大事な物を上書きしてしまっているのではないかとも思うのです。
    こういうデバッグは、実は無意識に自らが行っているのかも知れません。だとしたら、どのように自らがデバックを行っているのかを知ることが出来るのか……。と考えるときりがなくなってしまうので、それ以上は考えない様にしています。上手く考える知識と整理術が欲しい。
    ただ、やはり明確な例を挙げられないので、これは間違っているかもしれません。

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