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Hair Stylistics『Pop Bottakuri』




POP BOTTAKURI [Monthly Hair Stylistics Vol.1]
Hair Stylistics
boid (2008-04-28)
売り上げランキング: 23010



 遅ればせながら、Hair Stylistics(中原昌也)の「12ヶ月連続アルバムリリース企画」第一弾『Pop Bottakuri』を聴く。中原昌也の音楽には、暴力温泉芸者名義でのアルバム一枚と、北欧から来日した爆音ノイズバンドとの共演ライヴでしか触れたことがなく自分でも「これが好きなのかどうなのかよくわからない」という感じだったのだが、このアルバムで「あ、これ大好き」と確信した。素晴らしい――なにが素晴らしい、ってこのアルバムに収録されているノイズが「衝動」や「情念」的なものと全く関わらずに響いてくるところである。


 ノイズなんだけど、とにかく日本的なノイズ・バンド(っていうか灰野敬二とか非常階段とかのイメージが強すぎるんだろうけれど)とは別な次元/別世界で作られている感じをこのアルバムから強く受け取ってしまう。まるで日常の中から生まれてきた音楽。ポール・マッカートニーやブライアン・ウィルソンが自然と良いメロディ/曲を書いてしまうのと同様に、呼吸や食事や排泄と同じぐらいの自然さがある。「前衛」や「ウケ狙い」といった気取りは一切感じられない。すごくピュアな音楽だと思った。


 また、電子音楽/ミュージック・コンクレートといった60年代~70年代の前衛音楽のイメージ(具体的に言うとシュトックハウゼンの《コンタクテ》ってなんか、こんなだよな?みたいな)がものすごく記号化された形で用いられているところなどはやはり感心せざるを得ない。ニール・イネスがラトルズでビートルズをパロディを作り上げたような上手さである。ホンモノとは全然違うのに「それっぽさ」を強引に納得させてしまうこのセンス。やはり天才だ……。もはや「ノイズ/インダストリアル界のトッド・ラングレン」的な趣さえある。言ってみただけだけど。


 徹底して反ポップスでありながら、(本来の『ポップ』の意味が消失したところで)抜群にポップなところが恐ろしい。





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