スキップしてメイン コンテンツに移動

ブライアン・ファーニホウを聴く






 ヘルムート・ラッヘンマンのCDに引き続き、「ポスト・セリエル」のイギリス人作曲家、ブライアン・ファーニホウ(1943-)の作品集を聴いた。これは80年代から90年代の初めに書かれた室内楽作品を集めたCD。《第4弦楽四重奏曲》、《Kurze Schatten II》(独奏ギターのための作品)、《Trittico per G. S.》(独奏コントラバスのための作品)、《Terrain》(ヴァイオリンと室内楽アンサンブルのための作品)という4曲を収録している。


 《第4弦楽四重奏曲》は、ソプラノ独唱つきの弦楽四重奏曲(かなり謎のタイトルである。なぜ、連番にする必要があったのか)で、テキストはジャクソン・マッカロウというフルクサス関連の詩人が書いた「エズラ・パウンドの《カント第72》という詩を解体/再構築した」もの。《Kurze Schatten II》のタイトルはヴァルター・ベンヤミンのエッセイから。《Trittico per G. S.》はガートルード・スタインに捧げられた作品


 と言う感じで(ベンヤミン以外に知っている固有名詞が出てこなかったが、調べてみると)「とにかくこの作曲家は嫌らしいぐらいインテリで、現代思想/音楽以外の芸術にも造詣が深い」ということが分かる。ベンヤミンの生涯を書いたオペラも書いているのだとか。


 録音を聴いていて、どの曲も「楽譜を見なくとも、ものすごい細かい音量や音色の指示が書いてあるに違いない」と容易に想像できるのが面白い。特にヴァイオリン独奏は、喩えるなら「顕微鏡レベルで情報が詰まっている」ような凄まじさだ(ヴァイオリン独奏はアーヴィン・アルディッティ。さすが……)。また《第4弦楽四重奏曲》のソプラノ独唱は、ベルカント唱法とシュプレッヒシュテンメを高速で交互に繰返すところが最高にスリリングだ。


 すごい。でも、これは結構すんなり聴けてしまうのだった。アナリーゼなど到底できない身分でこういうことを言うのはなんだが「『ポスト・セリエル』と謳われながら、ファーニホウの音楽は忠実にブーレーズらのセリエル路線を踏襲しているのでは……?」という風に感じてしまう。とくに《第4弦楽四重奏曲》のポリフォニックな響き。これらを聴いていると「正確に言うと、ファーニホウは『ポスト・セリエル』というより『後期セリエル』――これはアンソニー・ギデンズ式の区分だが――なのでは?」と思ってしまう。ファーニホウとラッヘンマンを単純にひとつの言葉で括ることができるのかという点も疑問だ。


 とはいえ彼をラッヘンマンと対比したときに見えてくる両者のハッキリした違いはとても興味深い。ブーレーズとファーニホウの間には、大きな断絶は感じられない。しかし、ブーレーズとラッヘンマンの間には、大きな隔たりがある。その代わりに、ラッヘンマンはルイジ・ノーノと接近する(師弟関係にあるんだから、当たり前かもしれないが)。これは「音響による物語」と「音響による詩」という全く異なった音楽の捉え方が、同時代のアカデミックな音楽のなかに存在していることを示すような気もする。


ferneyhough-koernersuzukiyoshimatu


 大変どうでも良いがファーニホウの顔は吉松隆と鈴木雅明にそっくりだ(左から、ファーニホウ、鈴木、吉松)。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」