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中上健次『奇蹟』




奇蹟―中上健次選集〈7〉 (小学館文庫)
中上 健次
小学館
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 中上健次っていう作家は、私の中で「無茶苦茶好きなんだけれど、なかなか読めない作家」っていう位置づけであって、そういう感覚は「美味しいけど、強すぎるお酒」みたいな感覚に似ている。読もう(飲もう)と思う、しかし、独特の匂いが強すぎて「まあ、今日は良いかな」って思ってしまってなかなか手が出せない。でも、一旦、手を出してしまうとグ、グググとその魅力に引き込まれてしまって「ああ。これだよ。こういうのを読むため(飲むため)に、私は生きてるんじゃなかろか」って思ってしまう。最近読み終えた『奇蹟』もまったくそういう小説だった。


 良い小説、というのは割りとたくさんある。最近の読んだ最近の作家では川上弘美は面白かった。良い小説だ、と思える話を書いている。しかし、良い小説がちらほら目に付く一方で「良い物語」、もっと言ってしまえば「すごい物語」っていうのは圧倒的に少ない。というか、全然ない。中上が描く、濃ゆい物語は圧倒的である。もうなんか、95年ぐらいのヤクルトスワローズで阪神から移籍してきたオマリーがバンバンとホームランを打っていたような、そういう凄みがある。「こいつには適わない」。そういう感覚だ。文章が上手い、とか、そんなんじゃなくて、そういうのを超越して「なんか、すげえよ」と打ちのめされるような感覚。


 こういう感覚を読み手に抱かせる言葉/小説に対して、批評が持つ力とはいかにも貧弱である。「中上がこの小説でおこなおうとした多声性は……云々」、「『大鏡』との関連性は……云々」。そういったものは皆一様に価値を失ってしまう。そこまで圧倒的な物語を描く中上の豪腕に、私は「ま、参った!」という他はない。


 『千年の愉楽』と「秋幸サーガ」(『岬』、『枯木灘』、『地の果て至上の時』の三部作)という二つの「路地の物語」にあったミッシング・リンクを繋いでしまう、という作家が描き続けた物語を「ひとつのものにしてしまった」という重要性はもとより、小説単体を見たときの洗練された幻想的な風景も素晴らしい。短命に宿命付けられた者どもが、花火のよううに輝き散りゆく姿の美しさ/哀しさ。そういったものが怒涛の音楽のように押し寄せてくる。素晴らしい……という他はない。日本語で、これが読めること、それだけでさえも素晴らしいと思える。





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