スキップしてメイン コンテンツに移動

雲田はるこ 『昭和元禄落語心中』(1)〜(3)


昭和元禄落語心中(1) (KCx ITAN)
雲田 はるこ
講談社 (2011-07-07)


昭和元禄落語心中(2) (KCx(ITAN))
雲田 はるこ
講談社 (2012-01-06)

昭和元禄落語心中(3) (KCx(ITAN))
雲田 はるこ
講談社 (2012-10-05)
雲田はるこの話題作『昭和元禄落語心中』の既刊を読む。落語をテーマにした漫画はすでにいろいろとあり、ストーリーの骨格部分もとても既知感があります。「身寄りのない主人公が、○○を生き甲斐と決めて道を歩み始めようとする」という冒頭部分(○○のなかには、落語、が入る)、あるいは2巻から始まる「ラディカルで破天荒な天才」と「クールな秀才」というライヴァル・親友関係の因縁話は、なにかのテンプレートにハマっていると言っても過言ではないのですが、とても面白い! 妻が読んでいたのを借りたのですが「これはベテランの作家さんなのですか?」と訊ねたくなる古い少女漫画ライクな絵柄も魅力的ですし、またその絵柄にはラインの美しさ、というか、手塚マンガに出てる女体にグッとくる感じというか、そういう艶っぽい魅力を感じます。もともとはBLから商業デビューをした作家さん、という前知識を仕込んでしまうと余計に、男同士の絡みにも艶やかさを読み取ってしまいそうになる。

伝統であるとか、風習であるとか、とても落語について勉強されて描かれており、そこには現実の落語界でおこった歴史がモチーフになっているのでは、というのも感じられます。「落語が生き延びるために、伝統を破壊する」というラディカルな登場人物の思想には立川談志が宿っているでしょうし、戦時中古今亭志ん生も満州へ慰問芸人として渡っている。物語における「現代」が昭和のいつなのか明示されていないのですが、推測するに落語教会分裂騒動もエピソードに含まれてきそうな気配もあったりするのかな。落語で使用する太鼓の音が、物語内で起こった音ではなく、テンポを煽ったり整えていく効果音として物語外から挿入されていく演出も面白く、セリフ回しにしても、落語的なスピード感を感じますし、とても音声的/音楽的な漫画だと思いました。続きが愉しみです。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」