多くの人々にとって「かつては偉大な中世の思想家がいたんだ」なんて言われたら驚かれると思います。単に「偉大な思想家」だったら今でも学ぶことができる、けれどもそこに「中世の」(ざっくり言って西暦600年から1500年のあいだを指し示す)形容詞がつくと、しばしば「中世の思想家は『偉大だ』と言うことなんかできないのでは?」と言われたりしてしまいますからね。
でも何故なんでしょうか? ひとつの解答例としてあげられるのは、中世の著述家の議論や推論が「権威」を振りかざすような傾向にあるからでしょう。宗教に関するものであれば特に。そのような権威主義的なものって偉大な思想とはいえないのでは……? とか今日ではそんな風に言われてるわけですね。また、近代科学が興る前の人たちの考えになんか偉大なものなんかないよね、近代哲学にも神学にも関係ないし、とか言われたりする。科学系の学生だときょうび17世紀より前の人文学になんか滅多に関わらないですし、12世紀の哲学を勉強している学生はアリストテレスからデカルトまでの思想史についてちっとも教わらないなんてこともあります。現代の神学科の学生なんて「重要な神学的思考とは19世紀に考えられたものだ」と信じるように促されたりもするんです。
近代科学の起源は、世界は理性的な研究によって開かれて、混沌よりも秩序だっているという信念のうちにある。でもその信念は中世のあいだに体系的に探求され、発展したものなんですよね。また、人々の需要に応じて哲学や神学においてもっとも洗練されて厳格な議論が見られるようになったのも中世思想においてなのです。当然のことながら、中世の哲学者や神学者も、現代と同じように、大抵は大学の教師かなにかで、同時進行する世界規模での議論に参加していましたし、17、18、19世紀の哲学者や神学者たちとは違って、教師と学生という大きなコミュニティから離れて仕事をする人ではありませんでした。さて、ここで中世の思想家たちが権威的に見えてしまうという疑問についてはどうでしょうか。中世の思想家の多くが権威、とくに宗教的な権威を信じていたのはたしかです。でも今日の多くの人だってそこから抜け出せないのも事実。中世の思想家と同じように、わたしたちの頭のなかの内容物も権威でいっぱいですし、それは現代の哲学者もそんな印象をだんだんとわたしたちに植え付けていますよね(たとえそういう状況でも、思想家たちのあいだにいろいろと違いがありますから『中世思想』なんて一言でまとめられるものはなかったのでは? なんて言う人がいるのもごもっと)。わたしたちの知っている大半のものごとはさまざまな教師だとか、同僚だとか、友人だとか交流全般から得ているものでしょう。権威への信頼でいえば、わたしたちと中世の思想家たちのあいだにある主な違いは、中世の人たちがわたしたちよりも権威がより注目し、露骨だったというところにあります。わたしたちが権威を感じないような、無批判であったり騙されやすかったりするところに違いがあるわけではないんです。
近年、そうした事実が「アカデミックなレヴェル」とわたしたちが呼んでいるものと同様に見なされるようになってきました。もはや中世は「暗黒時代」(つまり『知的な豊かさに欠けた』という意味ですが)として扱われてはおらず、現在多くの大学(そして多くの出版社や研究雑誌)が中世思想の研究に多くのエネルギーを注ぐようになっています。そうした研究者の人たちは単純に「中世が歴史的に重要である」と仮定の下で研究をおこなってるわけではありません、でも、中世には検討に値するものや学ぶべきものが満ちているということが明るみにでることが増えてきているんですね。これまでの長い間、中世思想なんか考古学者だけが興味を持つものだと考えられてきたわけですけれど、それとはまったく正反対に、わたしたちは時代の声として中世リヴァイヴァルに直面しているのです。
「中世の大思想家たち」シリーズはこうしたワクワクするようなリヴァイヴァルの一部分を反映させたものです。際立つ専門家チームによって書かれたこのシリーズは、中世の著述家たちの領域への実質的な手ほどきとなることを目指しています。そしてそれは今日の研究者たちが中世の思想家たちによって書かれたものを価値があるとしている過程が伝えてくれるものでしょう。中世「文学」の学生(たとえばチョーサーの著作とか)は現在でも(過剰供給ではないですが)容易に二次文献が手に入るような状況にあります。でも、中世哲学や神学に興味がある人というのは、その手助けになるような信頼がおけて手に入りやすくい書物にめぐまれているという状態ではまったくありません。「中世の大思想家たち」シリーズは中世哲学と思想に特化すること、そしてそうした思想家たちの人生や思想の外観を提示し、また現代にも通ずることを組み合わせることによって、このような情報不足が改善されることを期待しています。このシリーズを別個に読むと、ひとりの思想家に対して重要な情報を与えてくれます。そこではこれまでの類書によってカバーされているようにたくさんの人物はカバーできません。ですが、シリーズを一緒に手にとれば、中世哲学と神学の全体を包括した議論と、豊かで素晴らしい歴史を手に入れることができるはずです。学生の視点からも、一般読書の視点からも、それぞれの著者が明快でわかりやすいように書くよう尽力し、また思想家たちのかつては知られていなかった事柄を学べるようになっています。また、シリーズの関係者たちもまた、それらに生気を吹き込み、中世思想の専門知識をもって喜びをもたらせるように取り組んでいます。さらに、研究や紹介も同様に、それぞれの巻は歴史的なレヴェルと推論的なレヴェルの両面で中世研究の進展を探究しているのです。
さて、中世哲学や神学にまじめに取り組んでいる人のなかで、アヴィセンナ(イブン・シーナー)を無視しても差し支えないという人はどこにもおりません。それはイスラム教やユダヤ教、キリスト教のどの観点から言っても同様です。今でいうウズベキスタンで10世紀の終わりに生まれたアヴィセンナは、イスラム思想だけではなくマイモニデスのようなユダヤ教徒や、トマス・アクィナスのようなキリスト教徒にも絶大な影響を与えました。仮に「偉大なる思想家」をまったく知的な伝統が異なる人によって受容され、発展されるような人だとするなら、間違いなくアヴィセンナは「偉大なる思想家」でした。
この巻ではジョン・マクギニス(ミズーリ大学)がアヴィセンナによって書かれたすべての書物について詳細な紹介をしてくれています。彼はアヴィセンナをギリシャとイスラムの歴史的な文脈におき、アヴィセンナが論理学や、医学、心理学、形而上学、政治学、そして薬学(しばしばアヴィセンナは近代薬学の創始者とも言われています)といったトピックについてどのように考えたのかを説明してくれるでしょう。マクギニス教授は、哲学者や科学史家、中世思想研究者に、地域や重要性、アヴィセンナの影響と彼の哲学の観念史上の位置づけを評価するための出発地点を与えるものです。彼の優れた仕事によって、中世思想全般、とりわけイスラム思想に関わる人たちにきわめてありがたい本ができあがりました。
ブライアン・デイヴィス(シリーズ編者 フォーダム大学)
Jon McGinnis
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以上はオックスフォード大学出版局から出ている「中世の大思想家たち(Great Mediaval Thinkers)」というシリーズの巻頭言。ルネサンスの思想について読んでると「うーむ、中世について勉強不足であるな」と度々感じることがあったので、一冊『アヴィセンナ』を買ってみたんですけれど、気が向いたのでこの部分だけざっくりと翻訳してみました。近現代の哲学とちがって中世の思想はよくわからん、どマイナーである、というのは日本でも一緒だと思います。いや、興味はあるんだ、けれども何を読んだら良いかわからんのだ、みたいな人に向けてちょうど良いシリーズなのかもしれません。クニ坂本さんも「非常に水準の高い書物」とこのアヴィセンナ本を評価されていました。ほかには「アベラールとエロイーズ」、「アル=キンディ」、「アンセルムス」……とかいろいろあります。
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