Jon McGinnis
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『アヴィセンナ』第一章のまとめの続きです(前回)。予告通り今回はアヴィセンナに影響を与えたアラビア・イスラム世界の思想的背景についてまとめていきます。まず重要なのは、アヴィセンナが生まれる250年ほど前にアッバース朝で翻訳ムーヴメントの勃興したことです。762年、アッバース朝の第2代カリフであるアル=マンスール(al-Mansur)によって新都市、バグダッドが建設されます。ここがアラビア語翻訳ムーヴメントの最前線の都市となり、ギリシャ、ペルシャ、インドの科学が、アラビア語の文学やイスラム法、イスラム的思弁法と一緒に研究され、そこからファルサファ(falsafa)という哲学的伝統ができあがる。アヴィセンナとはこのファルサファの最も重要な代表人物のひとりに位置づけられます。なお、バグダッドで翻訳文化が栄えたことは三村太郎の『天文学の誕生』にも詳しい。短いけどすごく良い本なのでそちらも是非。私は異文化が混じって新しいものができる歴史現象が好きなので、こういう記述はとても楽しく読みました。
バグダッドを作ったアル=マンスール自体、たいへん学問好きな権力者だったそうですが、翻訳ムーヴメントとの本格的な展開は、アル=キンディ(al-Kindi)という人が登場がきっかけとなりました。この人は800年ごろに生まれて870年頃に亡くなっていますから、だいたいアヴィセンナの200年ぐらい前の人です。本書ではアル=キンディがファルサファに貢献したポイントは3点、あげられています。まず、ギリシャの科学と哲学のテキストの翻訳を推進したこと。彼自身がギリシャ語の翻訳をしたわけではなかったそうですが、ギリシャ語原典の内容や翻訳の質についてアドヴァイスをする監督役をしていたそうです。つぎに、アル=キンディは外国の学問全般に取り組むムスリムの学者を熱烈に応援したこと。さらに、ギリシャ語の著作から学んだことをイスラム哲学の世界観に織り込んで、形式化したこと。要はアル=キンディがファルサファの礎を築いたのですね。
(このあたりから知らないアラビア人の名前が増えてきます。ラテン文字転記をどういう風に読むのかよくわからないし、ちょっとしんどい。自信がないものはアクセント記号とかはすべて取っちゃうけど、ラテン文字転記した本文中の表記も併記します)
アル=キンディのピークのころにはフナイン・イブン・イサーク(Hunayn ibn Ishaq)という人を筆頭に、ものすごい多産な翻訳サークルができています。ひとりひとりがものすごい量の翻訳をこなして、かつ、それより前の読みにくいダメな訳を改訳したりしてるんですね(なお、フナインはひとりでガレノスの百ぐらいの著作のアラビア語訳を手がけています)。これもファルサファの基礎のひとつとなりました。また、こうした活動のなかでアリストテレスの書物についての要約や註解であったり、命題集といった研究が進んだことも重要です。彼らはバグダッド逍遥学派とも呼ぶべき知的サークルを形成するようになります。
バグダッド逍遥学派のなかではアル=キンディの死後に活躍した、アル=ファーラービー(al-Farabi)が傑出したアリストテレス註解者として注目されます。彼の業績はアヴィセンナにも絶大な影響を与え、アリストテレスに次ぐ思想家として「第二の教師」というあだ名までつけられます。ファルサファの体系を構築し、すべての存在が第一原因の神へと従属するという階層構造をよりクリアな形で説明づけたのもアル=ファーラービーの功績でした。
こうしてギリシャ起源の思想が発展していく一方で、イスラム社会の学問ではカラーム(kalam)という伝統も発展しています。カラームは単に「神学」とも訳されるのですが、広い意味では「イスラム主義思弁的神学」という風に捉えられるといいます。ファルサファに対し、ムタカリムーン(mutakallimun)と呼ばれるカラームの支持者たちは、アリストテレス主義者のロジックをややギリシャ語の文法によりかかるものとみなし、彼ら自身のアラビア語の文法にもとづく概念やアナロジックな理由づけによって議論を推し進めている。さらにファルサファでは連続な存在論(絶対的な第一者から流出したものによってすべての存在が存在する)を考えていたのに対して、カラームでは存在が原子的であり、偶発的におこる、という風に考えられます。興味深いのはこうした性質が異なる伝統が、同じ問題について議論をおこなっていたり、その解答が共通の直観的なものとして共有されていたことです。ファルサファの支持者たちはギリシャ‐アラビア的な哲学と科学の伝統を進展させ、カラームの信奉者たちはアラビア語とイスラム教に強く結びついた思考を発展させる、という風に道は分かれるのですが、どちらか一方が勝利を収めるのでなく、共存しているのが面白いですね。
アヴィセンナの時代のカラームはムータジラ派(ミュタズィラ Mutazilites)とより伝統的なアシュアリー派(Asharites)の2つの学派に大別されます(もうひとつマートゥリーディー派というのがありましたが、これはざっくり言うと両者の中間でややアシュアリー派に近い考えの派閥だったようです)。ムータジラ派の特徴として、彼らは文字通りにクルアーンを解釈することを止め、そこにロジカルな読解を導入したことがありました。たとえばクルアーンには神がもつ属性についての記述がある。こうした記述をムータジラ派は、神の統一性、単一性を傷つけることになるのでは、という風に考えるのです。これは神の属性を厳格に捉えることが、神を評価することと同意義である、という理由からでした。また、ムスリムの信仰告白においては厳格に「唯一の神だけが存在する」ということが宣言されます。これと同様の理由で、ムータジラ派はクルアーンが神の言葉ではありえず、創造されたものである、という風に考えます(伝統的には、神の言葉そのものであるクルアーンは神の創造物には含まれない)。そのココロは、もしクルアーンが創造されたものでないのであれば、それは神と同様の永遠性と価値を持つことになってしまうではないか! ということです。ここからムータジラ派は神にすべての力と原因性を設定するため、決定論的な原理を導入することになります。しかし、こうなるとまた別な議論がおこります。すべてが神の思し召し! であるならば、それは神自身がおこなっていることなのだから、神が我々を裁いたり、恵みを与えたりすることができないのでは? となるのですね。こうしたムータジラ派はアル=マームーンの時代に全盛となり、正統派として認められ、アヴィセンナの時代には政治的には陰りを見せていたものの円熟期に達します。この円熟期には、アブド・アル=ジャッバール(Abd al-Jabbar)という人がイランのレイという都市で活躍したそうです。
こうしたムータジラ派の理性的なイスラム解釈を行き過ぎであるという風に捉えるむきももちろんあります。急進派のムータジラ派に対する伝統主義的なムーヴメントは、アフマド・イブン・ハンバル(Ahmad ibn Hanbal 780 - 855)という人物にはじまり、スンニ派のなかでは、上記ですでに名前だけ紹介したアシュアリー派を作るアル=アシュアリー(al-Ashari 935年没)の思想が支配的な神学を形成することになります。アル=アシュアリーはもともとムータジラ派の人物でロジカルな世界に生きていた人でしたが、後にそれらを徹底的に信用しない方向に転じます。いくら理詰めで考えていっても、それが神のモノにはならない。これがロジックの限界だ! とある日、アル=アシュアリーは気づくのです。彼はムータジラ派が否定したクルアーンにおける神の属性の記述や、クルアーン創造説を肯定します。また、神による決定論おいては彼は、たしかに神はすべての意思や創造物を作っているのだが、なんらかの行動は「我々を通して行われている」、それゆえに善悪の責任は我々にある(神に裁かれる存在である)という風に言います。アヴィセンナの時代には、ムータジラ派と一緒にファルサファもアシュアリー派からの批判を受けていたようです。アル=バーキッラーニー(読み方不明。al-Baqillani)がその批判者の代表で、アシュアリー派のなかで彼は後代のアル=ガザーリーと肩を並べられる唯一の人物と評されているのだとか。
結果的にアシュアリー派はスンニ派のなかで多数派を締めましたが、ムータジラ派はシーア派のなかでひっそりと生き延びます。加えて、シーア派のうち、イスマーイール派はアヴィセンナの時代には重大な影響力を持つようになっていました。世界史の授業みたいになってきましたが、10世紀のはじめにイスマーイール派の指導者であったウバイド=アッラー・アル=マフディー(Ubayd-Allah al-Mahdi ムハンマド直系の第4代正統カリフ兼、シーア派のリーダーであるイマームの初代であるアリーの血族の歴代イマームは途中で途絶えるんだけれども、後に転生してマフディーという救世主として復活する! というのがシーア派の人の考え。つまりアル=マフディーということは『俺は救世主!(I am a hero!)』と名乗ること)が北アフリカを武力制圧し、ファーティマ朝を建立します(Wikipediaだとこれは909年とありますが、本書だと910年とある)。で、その60年後、ファーティマ朝はエジプトを制圧、新都カイロを建設します。これがイスマーイール神学の発信基地となるのです。彼らは『正統な信者仲間の書物』(The Treatises of the Brethren of Purity)なる50巻以上にもなる伝導書を編纂し、ここにはアリストレスや新プラトン主義、新ピタゴラス主義的な要素も含まれていたんだとか。この書物はアヴィセンナも読んでいたんですって(ただ、彼がイスマーイール派になびくことはなかった)。
さて、ずいぶん長くなってきました。この「アヴィセンナに影響を与えたもの(アラビア編)」セクションの最後ではアヴィセンナと同時代の思想的状況について説明されています。ここは結構さらっとしている。まずは、偉大な博学者であるアル=ビールーニー(al-Biruni)は若い頃のアヴィセンナと文通をしていた、とか、イブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haytham)はアヴィセンナと似た光学理論をもっていた、とか。また、フィルダウシー(Firdawsi)が『シャー・ナーメ(王の書。すごい山川の世界史用語集感!)』を書いてペルシャにおける文学を復活させた頃、アヴィセンナは『科学の書』をペルシャ語で書いており、これはペルシャがイスラム勢力によって征服されて初めて書かれた哲学書だったんだそうです。
うー、長かった。次はいよいよアヴィセンナの生涯にはいっていきますよ〜。(続き)
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