スキップしてメイン コンテンツに移動

ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(3)


パサージュ論 第3巻 (岩波現代文庫)
W・ベンヤミン
岩波書店
売り上げランキング: 219116

ベンヤミンの『パサージュ論』第3巻には以下の項目でまとめられた断片が収録されています。「夢の街と夢の家、未来の夢、人間学的ニヒリズム、ユング」、「夢の家、博物館、噴水のあるホール」、「遊歩者」、「認識論に関して、進歩の理論」、「売春、賭博」、「パリの街路」、「パノラマ」、「鏡」、「絵画、ユーゲントシュティール、新しさ」、「さまざまな照明」……とパッと見て分かるとおり、項目数の多さは全巻最多、とはいえとっ散らかった内容になっているわけではなく、アルファベット順に項目が並べられているにも関わらず不思議とまとまりを感じさせます。個人的には、いくつかの断片からベンヤミンが19世紀という時代を、どのように捉えていたのかが浮かび上がるところを興味深く読みました。

ベンヤミンは言います。「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代」である、と(P.7)。そして、集団が見る夢をパサージュを遠して追跡することが、彼の『パサージュ論』における主たる目的だったと言います。ここでベンヤミンが言う、個人的意識の先鋭化と、集団が見る夢の深化、これらは相反するように思われるけれども、パラレルに進行していく。この点は第2巻を読んだときに書いた「本人は自由意志に基づいて生活しているつもりなのに、マガジンハウスの雑誌に書かれたライフスタイルなるものをなぞっているだけだった、個性的でシャレオツな生活は、なにかの痕跡でしかない」ということにも繋がるように思われました。個人は個人的な意識で行動している。しかし、その個人も集団を構成する要素でもあり、集団が見る夢とは無関係ではない。集団が見る夢、を「時代の空気」みたいな言葉に置換しても良いかもしれません(ベンヤミンはユングの『集合的無意識』を借用します)。個人の意識によって時代の空気は醸成され、そしてそれが個人を覆っているように見えてくる。

さて、そうした19世紀の集団が見る夢をベンヤミンはどのように読み解くのか。これは私の勝手な読み解きに過ぎませんが、ここには彼の2つの態度が現れていると思われました。ひとつは、ベルリンからやってきた男が美しい都市に魅了されてしまった、という「おのぼりさんイズム」(この『おのぼリズム』については第1巻を読んだときにも書きました)。パリの街路やパサージュをふらふらと歩き、そこでたまたま目に入ったものからほとんどファンタジックなイメージが間歇泉のように浮かび上がる。そうした愉しみは「遊歩者」の項目に表されています。

しかし、そうして受け取ったイメージは、言わば「19世紀の残り香」のようなものだったのでは、という風にも思われるのです。ベンヤミンは基本的にクソおセンチ野郎ですから、自分が知っているパリは20世紀のものなのに、かつてそこに存在していた19世紀の空気を(自分は知らないハズなのに)懐かしんでしまう。相変わらず、この巻でもプルーストへの言及がたびたびおこなわれるのですが『失われた時を求めて』に登場するコンブレーや祖母の記憶に対する追憶は、ベンヤミンにとっての19世紀のパリへの追憶と重ねられる。ただ、ベンヤミンが追憶する19世紀のパリはただただ美しいだけの思い出ではありません。資本主義の発展とともに、社会の動きはどんどん加速していくなかで、エレガントな社交的な空気が高まっていくのと同時に、パノラマ画のようなキッチュなものに人々は熱狂する。これはエレガント、だけれどもキッチュである。そんな奇妙な時代の姿は「1893年には、散歩するときに亀を連れて行くのがエレガントであった」(P.91)にも現れています。

また、ベンヤミンの歴史記述の方法論も面白かったですね。彼は唯物論的歴史記述を標榜し、従来の歴史記述を批判しながら、自らの方法論を以下のように説明します。従来の歴史記述はなにか歴史の連続的な流れのようなものが自明なものとして存在するかのように思われていて、そこから歴史家は安易に事象を取り出して論じてきた。けれども、そんなものは実は「感情移入によって新たに作り出された連続性の中に組み入れること」に過ぎない(P.218)。それに変わるベンヤミンの唯物論的歴史記述とは「歴史の流れを爆砕して」(同)事象を取り出す方法論だそうです。これ、なんか勇ましくてカッコ良いですよね。イマイチその後の「爆砕してどうする」部分は、よくわからないのですが、「歴史を記述するということは、出来事があった年にその相貌を与えることである」(P.219)ともあることから、とにかく歴史が前に進んでいくような進歩思想はダメだ! 歴史の流れを爆砕して、バラバラになった事象に姿形をあたえよ! というのがベンヤミンの言い分っぽい。

歴史と離れたところでは「売春、賭博」のところも面白いです。ちょうどこの部分はゲオルク・ジンメルのコケットリー論を思わせる部分がある(これは奥村隆の『ジンメルのアンビヴァレンツ』にまとめられています)。ベンヤミンにとっての売春とは、性的な快楽と金銭を単純に交換する取引行為ではありません。パリの街中を歩いている男が売春婦のひとりを選び、秘密めいた場所に消えていく。それは、ちょうど象牙の球がルーレットの数字盤に吸い込まれる姿に似ている、と彼は言います。ゆえに売春と賭博には世の中でもっとも罪深い悦びがある。また、娼婦を買う男は、性的な快楽を買うだけではなく、女から恥じらいの感情も与えられる。その恥じらいによって娼婦を買った男は、最初に差し出した金額よりも多くの額を娼婦に与えずにはいられなくなってしまう。もちろん私には、売春を正当化するつもりなどありません。けれども、ベンヤミンが描いたこの男と女の微妙な関係性の味わい深くて良いな、と思わされました。「女を買う」という強権的な男性の姿が「恥」によって、なし崩しになってしまう、というか、ある種の「賢者タイム」をベンヤミンは描いているように思うのです。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...