ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(3)

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パサージュ論 第3巻 (岩波現代文庫)
W・ベンヤミン
岩波書店
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ベンヤミンの『パサージュ論』第3巻には以下の項目でまとめられた断片が収録されています。「夢の街と夢の家、未来の夢、人間学的ニヒリズム、ユング」、「夢の家、博物館、噴水のあるホール」、「遊歩者」、「認識論に関して、進歩の理論」、「売春、賭博」、「パリの街路」、「パノラマ」、「鏡」、「絵画、ユーゲントシュティール、新しさ」、「さまざまな照明」……とパッと見て分かるとおり、項目数の多さは全巻最多、とはいえとっ散らかった内容になっているわけではなく、アルファベット順に項目が並べられているにも関わらず不思議とまとまりを感じさせます。個人的には、いくつかの断片からベンヤミンが19世紀という時代を、どのように捉えていたのかが浮かび上がるところを興味深く読みました。

ベンヤミンは言います。「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代」である、と(P.7)。そして、集団が見る夢をパサージュを遠して追跡することが、彼の『パサージュ論』における主たる目的だったと言います。ここでベンヤミンが言う、個人的意識の先鋭化と、集団が見る夢の深化、これらは相反するように思われるけれども、パラレルに進行していく。この点は第2巻を読んだときに書いた「本人は自由意志に基づいて生活しているつもりなのに、マガジンハウスの雑誌に書かれたライフスタイルなるものをなぞっているだけだった、個性的でシャレオツな生活は、なにかの痕跡でしかない」ということにも繋がるように思われました。個人は個人的な意識で行動している。しかし、その個人も集団を構成する要素でもあり、集団が見る夢とは無関係ではない。集団が見る夢、を「時代の空気」みたいな言葉に置換しても良いかもしれません(ベンヤミンはユングの『集合的無意識』を借用します)。個人の意識によって時代の空気は醸成され、そしてそれが個人を覆っているように見えてくる。

さて、そうした19世紀の集団が見る夢をベンヤミンはどのように読み解くのか。これは私の勝手な読み解きに過ぎませんが、ここには彼の2つの態度が現れていると思われました。ひとつは、ベルリンからやってきた男が美しい都市に魅了されてしまった、という「おのぼりさんイズム」(この『おのぼリズム』については第1巻を読んだときにも書きました)。パリの街路やパサージュをふらふらと歩き、そこでたまたま目に入ったものからほとんどファンタジックなイメージが間歇泉のように浮かび上がる。そうした愉しみは「遊歩者」の項目に表されています。

しかし、そうして受け取ったイメージは、言わば「19世紀の残り香」のようなものだったのでは、という風にも思われるのです。ベンヤミンは基本的にクソおセンチ野郎ですから、自分が知っているパリは20世紀のものなのに、かつてそこに存在していた19世紀の空気を(自分は知らないハズなのに)懐かしんでしまう。相変わらず、この巻でもプルーストへの言及がたびたびおこなわれるのですが『失われた時を求めて』に登場するコンブレーや祖母の記憶に対する追憶は、ベンヤミンにとっての19世紀のパリへの追憶と重ねられる。ただ、ベンヤミンが追憶する19世紀のパリはただただ美しいだけの思い出ではありません。資本主義の発展とともに、社会の動きはどんどん加速していくなかで、エレガントな社交的な空気が高まっていくのと同時に、パノラマ画のようなキッチュなものに人々は熱狂する。これはエレガント、だけれどもキッチュである。そんな奇妙な時代の姿は「1893年には、散歩するときに亀を連れて行くのがエレガントであった」(P.91)にも現れています。

また、ベンヤミンの歴史記述の方法論も面白かったですね。彼は唯物論的歴史記述を標榜し、従来の歴史記述を批判しながら、自らの方法論を以下のように説明します。従来の歴史記述はなにか歴史の連続的な流れのようなものが自明なものとして存在するかのように思われていて、そこから歴史家は安易に事象を取り出して論じてきた。けれども、そんなものは実は「感情移入によって新たに作り出された連続性の中に組み入れること」に過ぎない(P.218)。それに変わるベンヤミンの唯物論的歴史記述とは「歴史の流れを爆砕して」(同)事象を取り出す方法論だそうです。これ、なんか勇ましくてカッコ良いですよね。イマイチその後の「爆砕してどうする」部分は、よくわからないのですが、「歴史を記述するということは、出来事があった年にその相貌を与えることである」(P.219)ともあることから、とにかく歴史が前に進んでいくような進歩思想はダメだ! 歴史の流れを爆砕して、バラバラになった事象に姿形をあたえよ! というのがベンヤミンの言い分っぽい。

歴史と離れたところでは「売春、賭博」のところも面白いです。ちょうどこの部分はゲオルク・ジンメルのコケットリー論を思わせる部分がある(これは奥村隆の『ジンメルのアンビヴァレンツ』にまとめられています)。ベンヤミンにとっての売春とは、性的な快楽と金銭を単純に交換する取引行為ではありません。パリの街中を歩いている男が売春婦のひとりを選び、秘密めいた場所に消えていく。それは、ちょうど象牙の球がルーレットの数字盤に吸い込まれる姿に似ている、と彼は言います。ゆえに売春と賭博には世の中でもっとも罪深い悦びがある。また、娼婦を買う男は、性的な快楽を買うだけではなく、女から恥じらいの感情も与えられる。その恥じらいによって娼婦を買った男は、最初に差し出した金額よりも多くの額を娼婦に与えずにはいられなくなってしまう。もちろん私には、売春を正当化するつもりなどありません。けれども、ベンヤミンが描いたこの男と女の微妙な関係性の味わい深くて良いな、と思わされました。「女を買う」という強権的な男性の姿が「恥」によって、なし崩しになってしまう、というか、ある種の「賢者タイム」をベンヤミンは描いているように思うのです。

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