(第1巻〜第4巻までの感想はこちら)第5巻から話の飛び方がエラいことになっているなあ〜、という印象が。第4巻から突然登場するドラゴンの存在が、物語のファンタジックな要素をより特徴づけているのだが、それと同時にサイバー・パンクな用語系のめちゃくちゃさもスゴくなっているし、時系列も複雑にクロスしながら進行していくので「これ、まともに読んでついていける人いるの? というかよく連載が許されていたな……」と驚かざるを得ないです。途中でセリフが英語になったりするし(別に難しい英文ではないけれども)、90年代のヒップなスラングが日本語の流行語と合成されてセリフ回しに使われているところとかは、いまは時代を感じさせるものになっている。とくに6巻はフルポリゴンで出力されたキャラクターの3DCGも(物語本編にはでてこないけれども)でてきて、その制作裏話も含めてちょっとした時代のドキュメントになっているようにも思いました。6万4500ポリゴンのキャラクター(造詣は『トバルNo.1』みたい)のカメラ移動だけで、5分近くかかったという制作環境……なんかいろいろと早過ぎた感がある。あと、すっごい思うのは重要キャラクターの名前の長さによって、その重要さを演出しようとするのは、FSSに源流があるんでしょうか……と思いました。主人公の名前がフルネームが「アマテラス・ディス・グランド・グリース・エイダスIV」というんだけれど、ラテン語・英語・日本語が合成されて醸し出されるのは、非常に濃厚な中2感なのですね……。なんかいろいろと考えさせる漫画である……。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...


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