スキップしてメイン コンテンツに移動

澤井繁男 『魔術と錬金術』


魔術と錬金術 (ちくま学芸文庫)
沢井 繁男
筑摩書房
売り上げランキング: 151004

イタリア・ルネサンスの思想家の本を多く翻訳している澤井繁男による魔術と錬金術に関する概説書を読みました。本書は1989年に出版された『魔術の復権』(人文書院)と、1992年の『錬金術』(講談社現代新書)を合本したものだそう。第一部の魔術編と錬金術編で内容に重複する部分があったりするのですが、初めて「ルネサンス期の思想家ってどんな人がいたんだろうな〜」と知りたい人(どこにいるかはまったくもって不明!)とかには良い本なのかな、と思いました。文庫になったのは2000年で、もうすでにちょっと古い本になりかかってる感じもなきにしもあらず。ここ最近のルネサンス・初期近代の研究については、古典的名著の翻訳や日本人研究者による非常にクオリティの高いモノがかなりでていることもあって、あえてここから入らなくとも良いのかも、という。

例えば「魔術」パートで扱われている人たちは、イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』ともろにメンツがかぶっていますし、記述の内容的にもイエイツの内容のほうが濃くて面白い。イエイツの本は第10章まで、ジョルダーノ・ブルーノという人が登場するまでイタリアでヘルメス文書や新プラトン主義、カバラ数秘術がどんな人によってどんな風に扱われたかを延々とみていくわけですが、それは思想家ごとの線的に辿る発展史的なものでもあるわけです。澤井による記述にもそうした線的スタイルがあるんですけれど、一本の強いストーリーがあるわけではなく、途中で思想家ごとの比較がいろいろと入ったりして縦展開だけじゃなくて横展開もある。○×を使った表や、イメージ図を使ったりして分かりやすい説明をしようという努力がここでは見られるんですが、読んでて「え、こんなに平明に整理できるの?」という部分がそもそもひっかかってしまいますし、えーっと、端的に言ってなんか面白くない!! これをたまたま手に取った人が「魔術、面白い!」と思わないだろ! というのが率直な感想。

これはもしかしたらマーケティングな失敗かもしれず、この手の神秘主義とかルネサンス思想とかって大抵、澁澤とか種村とか、高山宏とか、コアで衒学的な人から入ってくる人が多いと思われ(私はそうじゃないんだけれど)、そういう人がこういう平明な記述にグッとくるかと言ったら、たぶん物足りないと思うし、これをキッカケに「魔術ヤバい、錬金術ヤバい」ってなる人もあんまいないのであれば、果たしてこれは誰に向けて書かれた本なのか、という。ソーンダイク、カッシーラー、ガレン……etcというブックガイド的な部分は、個人的にはちょっとありがたいなと思ったけれど、平井浩さんはずーっとインターネット上でそういう活動をされているわけで……。

ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統
フランセス・イエイツ
工作舎
売り上げランキング: 172286

神秘哲学―ギリシアの部
神秘哲学―ギリシアの部
posted with amazlet at 12.10.13
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
売り上げランキング: 389009
たしかに『魔術と錬金術』は安くて手軽な本だけれど、イエイツとか井筒とか読んだ方がこの手の話はグッと面白い! と思えるのでは、というのが私の感想でした。思想史に限らず、歴史関係の本は単に分かりやすいだけでは面白い本にならず、分かりやすくて面白くないと成功しないんじゃ、と思う。そうした意味で記述のスタイルとか、ポイントのしぼり方とかは重要だと思わされました。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...