スキップしてメイン コンテンツに移動

アマゾンのクソ業者死ね!



 テオドール・アドルノの『楽興の時』に収録されたシューベルト論を読み返しながら、アドルノが心理学的解釈を批判しつつ、どのようにシューベルト像を書き上げたのかについて確認をしてみた。ハンスリック以前に見られるような音楽批評家の心理学的解釈に対する辛辣な言葉の数々がいちいち笑えるけれど、何度読んでも「よっぐわがんねっす、先生」と泣きたくなるような文章を読むのは大変だ。あんまり人気がないのも察しが付くよなぁ。ただ、やっぱり私には面白いから読むのが止められない。マゾ的な快楽というか。





 面白い論文だけれどもシューベルトという600曲以上も歌曲を書き、俗謡からの影響もありつつ、ロマン派にいながら古典派っぽい曲ばっかり書いていて、ベートーヴェンに追いつきたいんだけどそこまで才能なくて、早死にしちゃった、という作曲家はアドルノ先生の手にも余るようである。アドルノは論文を以下のように締めくくる。



シューベルトの音楽を前に、涙はこころに相談もなく、目に溢れ出る。(中略)わたしたちは、訳もわからないままに泣く。しかし、わたしたちが泣くのは、わたしたち自身がこの音楽の約束するようなものになりえていないからであり、この音楽がひたすらそのようなものであることによって、わたしたちもいつかそれにあやかれることを請け合ってくれている、名づけようもない幸福のためである。わたしたちはこの音楽を解読することができない。しかし、涙にかきくれたくもり目の前に、それは究極の和解の符丁をつきつけているのである



 適当なことばっかり言ってる批評家には地獄突きを与えるような極悪ヒール、アドルノ先生がこのような感傷的とさえいえる文章を書いていることも意外で面白いのだが、最重要なのはそこではない。重要なのは「わたしたちはこの音楽を解読することができない」と言って、それまで一生懸命シューベルトについて語ってきたものをそこで放棄してしまうところにある。我々はシューベルトを「理解すること」は不可能である(大体、なんであんなに曲長いんですか?なんでそんなに不可解なギミックを取り入れるんですか?っていうか曲書くの下手ですよね?)――でも、泣いちゃうんだよなぁ…。というところで、アドルノは語るのを止める。ここに「ミメーシス」という態度が端的に表れている。「わかんない!言葉にできない!けど泣いちゃう。じゃあ、無理して語って言葉にして、わかるもの、言葉にできるものへと置き換えちゃう必要なんじゃないの?それって暴力的じゃないっすか?」と先生は言っているのだ、と勝手に思うことにした。



美の理論・補遺
美の理論・補遺
posted with amazlet on 06.07.03
テオドール・W. アドルノ 大久保 健治
河出書房新社 (1988/11)



 「ミメーシス」についてもうちょっと勉強したいな、と思い『美の理論』を買おうかと思ったら絶版。マーケットプレイスの値段は16000円。なめてんのか!!このエントリーのタイトルはその怒りの表れである。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」