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プルースト=クラヲタ




失われた時を求めて〈4〉第二篇 花咲く乙女たちのかげに〈2〉
マルセル・プルースト Marcel Proust 鈴木 道彦
集英社 (2006/05)



 ジルベルトちゃんと会えなくなってから、はや2年。「語り手」は祖母と小間使いのフランソワーズとバルベックという保養地に来ている。2年間で「語り手」の妄想力はさらにターボ装備ぐらいで出力アップしていて、読んでいて心配になるほど。オンナノコの頬を眺めながら「これは、どんな匂い、どんな味がするのだろう」とかとんでもない考えごとをする。大変だ。お前は、岸辺露伴か!





 バルベックではアルベルチーヌというオンナノコに「語り手」は恋をするのだけれど(他にもオンナノコがたくさんいて『俺、一体誰が好きなんだ?』と迷ったりもする。まるで『BOYS BE…』)、彼女に対する妄想と幻滅までの過程が良い。アルベルチーヌちゃんもアルベルチーヌちゃんで「天然のニンフェット」といった感じで、困ったオンナノコなんだけれど。思わせぶりにコケティッシュな態度をとってるんだけど、最後は堅いのである。「私とアナタは友達よね」、「私、そんな簡単じゃないんだから!」みたいなことを言って、最後には「語り手」が拒絶されちゃう。「えー、俺、なんで振られちゃったんだろ…」みたいに思いを反芻するなかで「語り手」が「あ、俺、ヤリたいだけだったのかなぁ…」と気がつくのもアホらしくて良い。





 幻滅とともにバルベックもシーズンが過ぎ、「語り手」御一行が止まっているホテルにも人が少なくなる。いつの間にか文章が「思い出語り」になっているのが、ちょっと切ない。ここ、見事だよなぁ。





 読んでいる間、この官能的な美は、ワーグナーから影響を受けたドビュッシー(《牧神の午後への前奏曲》)やラヴェル(《ダフニスとクロエ》)のエロスと通じるものがあるなぁ、と考える。とめどなく流れる思考は、トリスタン和音的な解決しない和声進行のようだ。些細なところでは「ネウマ」について触れている比喩表現があり、プルーストってものすごい音楽詳しいなぁ、と思った。クラヲタでも「ネウマ」にはなかなか触れないものね。あとは《カヴァレリア・ルスティカーナ》。一発屋の作曲家、マスカーニの作品。間奏曲しか知らないけれど、どんなストーリーなんだろう。





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