スキップしてメイン コンテンツに移動

ケント・ナガノはカラヤンの再来か?/プロコフィエフは難しい




Vadim Repin
Vadim Repin
posted with amazlet on 06.08.19
Nicolò Paganini Pyotr Il'yich Tchaikovsky Antonio Bazzini Henryk Wieniawski Vadim Repin
Warner Classics



http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1333445


 8月17日8月19日の記事に引き続き、ワディム・レーピン10枚組ボックスの話題。本日はディスク9について。このディスクにはショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番とプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番が収録されています。ボックスセットの中で個人的にもっとも欲しかったディスクがこれ。





 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は調べてみたらもう11枚も持っていました。この作品についてはオイストラフの記念碑的名演やオレグ・カガンの怪演があり、またここ10年間の間に録音されたものではヒラリー・ハーンの演奏が素晴らしく「まぁ、ハーンの演奏を持っていれば大丈夫だよ」などと言っていたのですが、レーピンの演奏はちょっとすごい。良い録音は大概聴いたつもりでしたが、あまりに良いものだったのでびっくり。4年間再発を待ち望んだかいがあったというものです。レーピンの演奏解釈についてはオイストラフに似ており、太い音色でたっぷりと歌いこみ、またしっかりと細かいフレーズを弾いているのに好感が持てます。速いパッセージでの安定感に関してはオイストラフよりも丁寧と言えるぐらい。しかし、この「安定感」は独奏者の技量によってだけではなく、オーケストラがしっかりとそれを支えているからこそ生み出されたものではないだろうか、と思いました。伴奏はケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団。




 ケント・ナガノといえば個人的にメシアンの《トゥーランガリーラ交響曲》の録音*1が非常に優秀で印象強かったのですが、この伴奏によってさらに自分の中の評価が高まりました。オーケストラの各楽器の音量を低音から積み上げていく、という基本にのっとった姿勢がとられていて「うーん、ベルリン・フィル時代のカラヤンみたいだなぁ」と思わされるほど。それが顕著なのは3楽章冒頭の低弦の鳴り。スピーカーの前でのけぞるってしまいそうな迫力で迫る感じがたまりません。細かいところでは2楽章にあるフルートとバス・クラリネットの速いフレーズが続くところでも、バスクラを強調させており、非常にグルーヴィーかつファンキー。『ビッチェズ・ブリュー』ぐらいカッコ良い。





 プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番の演奏についてもショスタコーヴィチの演奏と似たようなことが言えます(2楽章の感傷的なメロディが歌われるワルツでの頭拍の強調なんか思わず笑ってしまうほどすごい。沈み込むようなグルーヴ!)。





 プロコフィエフについて再確認したのは「やっぱりこの作曲家は難しい人だな」ということ。その難しさはこの作曲家を語ることの難しさ、ということなのですが。よく分からないんですよね。プロコフィエフといえば《戦争ソナタ》という20世紀のピアノ史に残る超絶技巧を含んだ攻撃的なピアノ作品群がある一方で、《キージェ中尉》や《戦争と平和》といった作品においてはびっくりするぐらい美しいメロディを書いている。また、初期にはストラヴィンスキーと呼応するかのように《スキタイ組曲》というバーバリックな作品もあるし、映画音楽も書いている……と非常に多彩。ただ、それらがきっちりと住み分けできていればまだ容易なのです。プロコフィエフの場合、時にそういった多彩さがアマルガム的に並立して存在していることがあり、それが平易に語ることを阻害しているように思われます。





 このヴァイオリン協奏曲第2番に関してもそのアマルガム的なところがあります。割と聴き易い作品なのですが、1楽章は「攻撃的な循環主題」、「半音階的なよくわからない進行」、「叙情的なメロディ」といった要素が混在し(ときおり12音技法さえ聞かれる)、分裂症的。また、楽章ごとの性格もバラバラ。作品を貫く軸のようなものが全く見えてこない。なんかフランスパンと一緒にタイカレーを食べ、デザートに和菓子が……みたいな異常さ。こんな食事をしていたら普通の人なら「おっかしいなぁ」と思うところですが、プロコフィエフの場合それが当然かのように振舞っているようにさえ思われます。まさに天才。しかし、常人には彼は天才過ぎて理解が難しいし、当然どう語って良いかもよくわからない。また「語ることの難しさ」は演奏と無関係ではなく(だって、フランスパンとタイカレーと和菓子を共存させられるシェフなんてそういないでしょ?)、プロコフィエフ作品のどの部分を掘り下げていくのか、というのは演奏者にとって問題となるはずです。しかもとくにクラシック音楽では「精神性」や「感情」が語られるところですから。





 レーピンの演奏では作品の中にある様々な要素を上手く調和させることに力を注ぐのではなく、逆にそれらを徹底して調和しないものとして分離させることで、作品の奇妙さを殺すことなく素晴らしいものにしているように感じられました。攻撃的な部分は徹底してドライに、甘いメロディは徹底して歌いこむ……そのあたりが良いですね。プロコフィエフの畸形性(言い換えれば天才っぷり)を捉えている。言いたいことがすごく分かる感じ。録音時、24歳とは思えないほど明確な視点のように思われました。レーピン、万歳。





 こういった演奏に出会えると満足で一週間ぐらい過ごせるというものです。逆にダメな演奏を聴くとその日の晩は後悔して「あぁ、これ買うならあれ買えば良かった」と布団のなかで泣いたりするんですが。




*1:この曲の録音では3本の指に入る名演なのに廉価盤で1050円。買わなきゃ損。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...