アドルノの「あえて」

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アドルノ―非同一性の哲学
細見和之
講談社 (1996/07)
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 ここ1年ぐらいの間、アドルノの著作を濫読していたのだが、そろそろまとめていかなくてはいけない時期になっていたので「再入門」の手がかりに再び精読してみた。講談社「現代思想の冒険者たち」シリーズの『アドルノ』を。これ、めっちゃくちゃ良い本なのに「現代思想の冒険者たちSELECT」(定価2600円から1500円に下げて再版されているもの)に入ってないってどういうことよ!と前々から憤慨している。非常に重要な著作(『美の理論』『音楽社会学序説』など)が絶版になりっぱなしで、古本価格では定価の3倍近くの値がつき手が出せない、という状況もまた現代においてアドルノの不遇さ(無視され具合、とか)の象徴のような気がする。ここは結束して不買運動を起こし、勤勉な学習者から暴利を貪らんとする悪徳古書店と徹底抗戦しなくてはならないのだが、結束してくれる人いませんか。





 以下、勉強したもののメモ。







 前回読んだときと同じく、ノートを取りつつ読んだのだが、読み終えて前回のノートを読んでみたら全く同じ部分をメモしていて「あんまり俺、成長してねーんだな……」などと思ったりもするけれど、まぁ、前回より格段にアドルノが「何故、彼が過激にジャズやポップスを批判しなくちゃいけなかったのか」とか「アドルノのテキストの読み方」といった問題を上手く理解することができている気がする。





 以前と違って読めた点で最も「あー、そうだったのか……」と思わされたのはアドルノの考える「自律的な芸術」について。これがまさに彼のジャズ/ポップス批判の最も中心的なよりどころとなっているのは前々から分かっていた。アドルノは「芸術の自律性」の立場から、亡命先のアメリカで聞いた「軽い音楽」が産業構造に取り込まれてしまっている!という事実を目にして、それらの音楽をコテンパンにやっつけてやろうとしている。「そんもん芸術じゃねーよ」と。ただ、この点で私は「アドルノは『芸術の自律』が可能である」と誤解してしまっていた。「芸術のシステムが社会から隔絶され、自己言及的な作品を生み出し、『自律した芸術』が存立していくことは可能である!」と信じて疑わない人なのかと思っていたのだ。





 が、それは誤解であった。芸術が「過去の作品」を塗り替えて「“全く新しい”作品、様式、技法」を生み出し「続けていく」ことは、また他のシステムの影響全く受けずに存立することが不可能であることを当たり前のようにアドルノは知っていたのだ。「芸術の自律」は不可能である、しかし、だからこそ「あえて」そこに踏みとどまらなくてはいけない。そんなシニカルな態度がアドルノにはちゃんとあったのではなかろうか、と思う。特にそれは『美の理論』において顕著なのだが、手に入らないのでこの本の引用の中でしか今確認できないのだが(腹を決めて図書館に行かなくてはならない)。





 ただ、この「あえて」がアドルノが批判する「ロマン主義」と矛盾が起きなかったのかなー、っていうのはまだ疑問。他は亡命知識人的な「暴力へのアレルギー的反応」を再確認。やはり、こういった生と密接につながりあった問題を取り扱う人物には惹かれる。





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