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時速300キロの分裂症的シチュエーション




佐藤君と柴田君
佐藤君と柴田君
posted with amazlet on 06.08.03
佐藤良明 柴田元幸
新潮社 (1999/06)
売り上げランキング: 230,787



 昨日、東京に用事があったから一時的に帰省を切り上げて新幹線に乗ったりなんかして、それからまた今日の夕方福島へと戻ってきた。現在、フーコーの『言葉と物』を精読するのに主な時間を割いているのだが、さすがに新幹線のリクライニングシートに座って読書ノートと『言葉と物』を広げるわけにはいかないから、軽めの本を選んで一気に読んだ。




 佐藤良明と柴田元幸という二人の東大の先生によるセッション的エッセイ集。ピンチョン、ベイトソンの翻訳それからポピュラー・ミュージックの研究もされている佐藤先生*1、対、村上春樹などとも絡みオースターやら何やらを訳してらっしゃる柴田先生、だから、なんとなく文面も20世紀のアメリカの「オルタナ(っぽい)文学」の香りがして面白かった。





 と言っても特にその香りの源泉になってるような小説に親しみがあるわけでなく、具体的な名前で言えばピンチョンを一冊読んだ、ぐらいしか言えないから、私のそういった「オルタナ文学」に対する印象が「正しいか、どうか」定かではない(大体、『オルタナ文学』という呼称が正しいかどうかもよくわからん)。が、そういったジャンル(?)にくくられているものに、ものすごく分裂症的な像を感じる。あるいは、なにか「本流」に対して屈折した態度表明のような…。いわゆる「ポスト・モダン」って言うんですか?本のなかにもこのキーワードが頻出していた。書かれたのが90年代だから仕方ないのかもしれない。ニルヴァーナと渋谷系がいた90年代。





 ビール3本でトム・ウェイツみたいに酔いつぶれたサラリーマンに挟まれて、大宮から福島まで運ばれる喫煙車両の中で、ブルックナーの交響曲第8番を聴きながら、読書して…っていう自分がそのときいた状況も充分に分裂症的だけれど、きっと90年代はその分裂にすら気がつかず、時速300キロメートルぐらいで突っ走ってた時代だったのかなぁ、なんて思う。知らないけどさ。




*1:一度、アメリカのポップス産業に関する講演を聞いたことがある。講演は『<黒い>サウンドとは?』というタイトル。よく評論的な文章に用いられる音楽の「黒さ」がアメリカの音楽産業によって作り上げられた「幻想」である、というのが主旨だった。id:mochilonの人などはチェックしておくことをお勧めする





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