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『めかくしプレイ』松山晋也



 『MUSIC MAGAZINE』増刊のムック。「色んなミュージシャンにブラインドで曲を聴かせて色んなことを語ってもらう」趣旨の「めかくしプレイ」という雑誌連載が一まとまりになったもの。登場するミュージシャンの数は100人。岸田繁、向井秀徳、菊地成孔といった話題の人からエンケン、JOJO広重、巻上公一といった「大御所」までが出てくる。とにかく「これ!」といったジャンルのくくりがなく登場するので誰が買っても面白いんじゃないかな、と思う。ここ30年ぐらいの日本の歌謡曲以外の音楽を俯瞰するような人選。渋谷系もバンド・ブームも下北系の人もいる。





 そのなかでも面白かったのがシカラムータなどで活躍する大熊亘のインタビュー。彼が音楽活動を始めるきっかけとなった衝動が語られていて、それが私が想像する「裏・80年代」的な憂鬱とぴったり一致した。学生運動とか安保闘争とか「祭り」が終焉して、消費的な空気が流れ出した空虚な躁状態、っつーか。アホみたいに景気が良かったんだろうけれど、そんな躁社会にノレなかった人たちのコンプレックスみたいなものが、当時のポスト・パンク/ハードコアの人たちのパフォーマンスには滲み出てきている気がする。





 話は少し変わって、現在、関西ゼロ世代とか高円寺の円盤周辺にわけがわかんないバンドが出てきて、盛り上がっているみたいなのを、友人から聞いて知っている。で、当然それらの「わけわかんない感」と、80年代のポスト・パンク/ハードコアの人たちの「わけわかんない感」は私の中で重なって聴こえる(もともとよく知らないから余計にね)。んだけど、やっぱり全然「態度」の面からして違うんだよな。80年代は「ガチでマジ」っぽい。今の人たち、炊飯ジャーにウンコしたり、マイクスタンドで客殴ったりしないし。まぁ、私はそういうの怖いから流血沙汰とかウンコとかゲロとか見たらヒいちゃうんだけれど、今いわゆる「アングラ」なところで活動してる若いミュージシャンには最初から「醒めてる感じ」とか「去勢されちゃってる感じ」を嗅ぎ取ってしまって、「なんだろうなー」と思ったりするのだ。世代論なんて嘘っぽいけれど、それが00年代の姿なんだろうか。客に角煮を喰わせたり、セーラー服のコスプレで客にパンツを見せたりするパフォーマンスの「柔らかさと鈍さ」は逆に面白いのかもしれないけれど。





 あと中原昌也のインタビューがぶっちぎりで笑えた。あと灰野敬二に宇多田を聴かせる、とかも。





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