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ラヴェルの描くアメリカ/メトネルって誰だ




Vadim Repin
Vadim Repin
posted with amazlet on 06.08.19
Nicolò Paganini Pyotr Il'yich Tchaikovsky Antonio Bazzini Henryk Wieniawski Vadim Repin
Warner Classics



http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1333445


 8月17日の記事に引き続き、ワディム・レーピン10枚組ボックスからの話題。今回は、ディスク5について。収録曲は以下の通り。



ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ


メトネル:ヴァイオリン・ソナタ第3番ホ長調 op.57



 ラヴェルのヴァイオリン・ソナタはティボー&コルトーのコンビで持っていたのだが、録音が相当悪いためラヴェルの音楽が持つ色彩感が伝わらない感じがしたので聴きなおすことができて良かった。この作品の面白さは、雫がポタリポタリと落ちるようなピアノが美しい1楽章以降にある。言ってみれば2楽章は「あぁ、ラヴェルっぽいなぁ、綺麗だなぁ」という感じで終わってしまうのだが、2楽章からは「アメリカ」を音楽的に描写する試みがなされているんじゃなかろーか、と思う(ラヴェルはこの作品を作る前後にアメリカへと演奏旅行へ出かけている)。2楽章に与えられた標題は《ブルース》。アメリカの黒人由来の音楽(ジャズ、ブルース)などを取り入れたものにはピアノ協奏曲があるけれど、ここまで露骨にやっているわけではない。まぁ聴いた感じは「ブルースっていうよりラグタイムだよなぁ……」と首をかしげてしまうんだけれど、洒落モノのラヴェルが「これがアメリカの最新流行ですよ」とヨーロッパに紹介しようとする意図が見え隠れする。3楽章は《無窮動》。これもちょっとアメリカの風刺音楽っぽい。半音でぶつかるジャズっぽいピアノのテーマの上で、せかせかと動きまわるヴァイオリンが街中を走り回るT型フォードの姿なんかを想起させる。




 びっくりしたのは2曲目のニコライ・メトネルという作曲家のヴァイオリン・ソナタ第3番。そういう固有名を意識しないで聴いていたのだけれど、途中で「うわっ、なんだこれ、聴いたことないけどすげぇ綺麗な曲じゃん!メトネル!?誰それ!!」と興奮しつつグーグルの検索窓に「Nikolai Medtner」と打ち込んでしまった*1。どうやらラフマニノフ、スクリャービンらの世代に位置するロシアの作曲家らしい。作曲の先生はタネーエフ、アレンスキー*2でロシア人作曲家の系譜的にもラフマニノフ、スクリャービンらと同じだ。ロシア革命後しばらくして1921年にパリに亡命するも空気が合わず、最終的にイギリスに落ち着き(1936年)そこでインド人のマハラジャから援助を受けつつ暮らしてた経歴もよくわかんない作曲家だ。インド人がパトロンだったからと言って別にインドの旋法やタブラとかシタールとかの曲を書いているわけではなく、ロマン派っぽい旋律の美しい曲をコツコツと書いていたんだとか。それを知って「20世紀にパトロンを持って曲を書けたっつーのは、ある意味ものすごく幸せだったかもしれないなぁ」などと思う。バルトークみたいにそこそこ有名でも貧困のうちに死んだ人もいるわけだし。





 このヴァイオリン・ソナタ第3番も美しい旋律盛りだくさんで、聴いた感じは素敵なのだが構造的に面白いところは全くない。最初「隠れた名曲か!?」と興奮してしまったが、音楽が発展する模様の地味さに少しずつ興奮が冷めてしまった。楽譜には細かい音符が並んでいるのが想像できる難しい曲だけれど、まぁ、なんかそれだけ……という感じ。こういう「難しそう……でもそれだけだよね……」という曲はヴュータン、ヴェニヤフスキ、ショーソンなどのヴァイオリン曲にも通ずるところである。書かれたのは1938年のことでイギリスに住み始めた以降。2楽章の旋律はどこかヴォーン=ウィリアムスなどのイギリス民謡を元にした作品にも似ていて、影響があったりしたんだろうか。





 うーん、この10枚組ボックスは発見が多いなぁ。




*1こちらが異様に詳しい。こんな作曲家について一体誰が書いてるんでしょうか


*2:今年、死後100年で記念演奏会がよく行われてる作曲家





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