スキップしてメイン コンテンツに移動

テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第4回講義メモ)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
売り上げランキング: 17030



 引き続き、第4回講義。この回の題目は「体系なき哲学は可能か」。それから、哲学における体系とは何かに始まり、そこから現代における哲学のアクチュアリティを問う。以下、いつものように講義メモ。この回はかなり饒舌、「アドルノ節」が全開で読んでいて楽しかった。「この要求を拒絶するような思考は、そもそもはじめから生存権をもたないと思います」(!)。




 伝統的な体系の概念について。「伝統的な哲学概念によるなら、体系でない哲学ははじめから有罪を宣告されています」(P.63)。その罪は偶然性という罪である。プラトンからドイツ観念論にいたるまで、伝統的な哲学概念が目指したものとは一つの原理から「世界全体を説明すること、あるいは少なくとも、そこから全体を生み出すことができる世界の根拠について説明する」(P.64)ことだった。しかし、今日ではこの体系が体系学に取って代わられている。


 体系と体系学との違い。「体系学とは、それ自体統一をもった叙述形式、したがって図式のこと」(同)。最も象徴的なものとしてここではタルコット・パーソンズによる「社会の機能構造論」があげられている。体系学においては、当該の専門領域に属すものすべてが、それにふさわしい場所を見出すことができる、とされている。しかし、このような体系学は、哲学によってなされる説明を単なる解釈へと失墜させる叙述法に過ぎない。


 ニーチェの反体系的思考、ハイデガーの非体系的思考、これすらも逆説的にであるが「体系の哲学」だということができる。非体系的であるとして私に向けられた批判も、以上と同様に無効となる(これは自惚れではないと思われる。『結局のところ、私が語っていることには互いに絡み合って一つの連関をなしているものがとても多くあった』【P.70】というよりも、アドルノはつねに同じことしか語っていないようにも思う)。


 しかし、現代においては体系は「もはやそれ自体として現れることはなく」、「潜在的になってい」る(P.68)。もはや、存在するすべてのものがあからさまに導き出されることもなければ、体系を産出するその本質的な概念にもたらされうこともない。これは建築術的秩序、ある真理の探究、ある根源の規定への断念である。が、その一方で「体系をいわば世俗化して、ここの洞察を結びつける潜在力にするという道」(P.68-69)を生み出している。むしろ、体系に残された道はそれしかない。ヘーゲルは「哲学はその時代を思想の形で捉えたものである」という。この言葉が告げるとおり「時代を超える真理」は断念せねばならない。


 また、ヘーゲルの言葉は「なぜ、かつては体系の成立が可能であったのか」という問いにも答えている。大きな体系が成立した時代(アドルノはデカルトからヘーゲルまでを区切りとしている)とは「見通しのきく」「中身がよくわかっている世界」だったのだ(P.73)。しかし、現代はそのような時代ではない。よって「すべてを一つの統一概念のもとに収めることができるかのような」(P.74)素朴な態度、その態度に潜む「田舎臭さ」は払拭されなければならない。「事務所で、腰掛けて紙と鉛筆とえり抜きの本を手にとって、そこから世界全体を把握できるなどと思っているような態度」に潜む田舎臭さを払拭し、「思想を哲学のもとに戻してやる道を記述」しなくてはならない(P.75)。世俗化された体系である否定弁証法はこれを目指す批判である。


 このとき否定弁証法は「体系のそなえていた力、かつて思考の形成物の統一性が全体として保持していた力を、個別的なものに対する批判の力、個々の現象に対する批判の力へ転換する」(P.71)。このとき、批判がもつ二重性について。まず、精神論的な意味での批判――命題や判断や全体としての構想の真偽についての批判。一方でこれは、現象に対する批判と関連する。「その概念を尺度として測られる現象は、自分はそんなものと同一ではない、と常に主張するのですが、そのことは同時にまた、この現象自体の正当性ないし非正当性についても語っている」(ややこしい言い回しだが、脱-構築的な『問い直し』として理解するとしっくりくるか?)。


 次回の導入。古びてしまった「フォイエルバッハ・テーゼ」について。哲学の廃絶が失敗に終わったことから、哲学のアクチュアリティを引き出すこと。





コメント

  1. こんにちは。講義メモのエントリ、とても面白いです。勉強になります。
    >ニーチェの反体系的思考、ハイデガーの非体系的思考、これすらも逆説的にであるが「体系の哲学」だということができる。
    このハイデガー批判に関しては本著の中で結構詳しく触れられているのでしょうか、それともさっと書かれているだけなのでしょうか。「アドルノのハイデガー批判」は賛否両論らしいのですが、少し気になります。

    返信削除
  2. こんにちは。横から失礼します。『本来性という隠語』におけるハイデガー批判は「また<<そのつど私のものであるという性格>>――したがって、また<<本来性>>は、結局のところ、単なる自己同一性だというところに落ち着く」(p144)のあたりが白眉でしょうかね。また私見ですが、アドルノにとって、ハイデガーの哲学が、ある意味近代を「なかったことにしてしまう」可能性を秘めていることが、耐え難いものではないのかとは思っています。

    返信削除
  3. >>duke377さん
    コメントありがとうございます。その指摘は興味深いなと思います。比較文学者のリチャード・ローティはハイデガーが現実に起こる社会的な事件に極度に無関心だったことを指摘している。確かに彼の哲学は「同時代」や「近代」や「啓蒙主義」を飛び越して、アリストテレスの時代、さらにはヘラクレイトスやパルメニデスの時代にまで遡ってしまう。そこに何らかの問題性があるのかもしれない。

    返信削除
  4. >duku377さん
    コメントありがとうございます。少しハイデガーに興味が出てきました。ハイデガーってそんな可能性持ってるんですか……。むしろもっと近代の極北みたいな人だと思っていました。
    『否定弁証法講義』のハイデガー批判は、彼の素朴さに力点があるように思います。

    >ryotoさん
    時間ができたらryotoさんが紹介されていたハイデガーの本に触れてみたいと思います。

    返信削除
  5. ハイデガー批判について「さっと書いてあるだけ」だと思います(まだ全部読んでないのでこれから詳しく書かれてるのかもしれませんが)。詳しくは「講義」ではないほうの『否定弁証法』にあったと思いますが、私はハイデガーについてほとんど知らないため、ryotoさんが期待されるような批判がされているかは分かりません。よく知られているアドルノのハイデガー批判をかいつまんで紹介すると「オマエも結局は偽装した観念論じゃねーか」(これは第4回講義でも少し触れられている)というのものと、「変なジャーゴンばっかりで、オマエの哲学は神秘主義か!物神化しやがって!!」(これは『本来性という隠語』ですかね。未読です……)というものがあります。

    返信削除
  6. ご教示ありがとうございます。ちょっと自分の方でも考えてみます。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」