スキップしてメイン コンテンツに移動

東京都交響楽団定期演奏会第656回@東京文化会館




武満徹:《弦楽のためのレクイエム》


武満徹:《アステリズム――ピアノとオーケストラのための》


武満徹:《系図――若い人たちのための音楽詩》


ルチアーノ・ベリオ:《シンフォニア――8つの声とオーケストラのための》



 素晴らしい演奏会。このプログラムを組んだ人は、天才的な構成力と想像力をもっているにちがいない。<日本管弦楽の名曲とその源流>のテーマで、武満×ベリオという組み合わせはややねらいが外れていたかもしれないが、前半で武満徹の軌跡を辿りつつ、《系図》と《シンフォニア》という二つの「声のための」作品で繋げられた。もっとテーマに寄り添うなら、ベリオよりもメシアンのほうが相応しかっただろう(《アステリズム》には、はっきりとメシアンの足跡のようなものを聴くことができることだし)。


 集中的に武満の音楽を聴いていて改めて気がついたのは、彼の音楽における「協和」というキーワードだった。「ストラヴィンスキーに認められた……」という逸話が有名な《弦楽のためのレクイエム》は、調性感が希薄だけれど、キツい不協和音は登場しない。後期の《系図》は、かなり調性的に書かれており、かなり歌謡性も高い(しかし、論理性を欠いた詩的な作品である。これは谷川俊太郎によるテキストと上手くリンクしている)。これは「ゲンダイオンガク」として、かなり特殊な傾向にあるといえるだろう。


 3曲中では《アステリズム》がもっとも「ゲンダイオンガク」らしい作品で、音の動きが激しいものだった。ここでは明らかに西洋的な「前衛」が志向されているように思える。鋭く鍵盤を連打するピアノ独奏、大規模な打楽器群、そしてオーケストラ全体が絡み合うトーン・クラスター。このような特徴は、メシアンやクセナキスの音楽にも認めることができよう。しかし、彼らの音楽が「不協和」によって「大きな効果/強い印象」を作ろうとするのと違って、武満はあえて「効果/印象」を殺すことによって「協和」を目指しているのではないだろうか。


 この作品ではグランド・ピアノの「ふた」が取り外されるように指示が行われているのだが、これなども「協和」を強く示唆する点である――この指示によって、ピアノは反響板の役目をするものを失う。当然、その分、音量の効果は下がる。いくらピアニストが鍵盤を強打しても、その音はオーケストラのなかに溶け込んでしまう。音楽が最大に高まる部分では楽器の判別が難しくなるほど音像は不透明になり、抽象的な塊を描くように響く。《アステリズム》というタイトルは「星座」を意味する言葉だという。ここでも音と言葉がうまく協和している。


 ベリオの《シンフォニア》。前半の武満が私の仮定のように「協和」を目指したものだとすれば、後半は逆に「不協和」の極北といったところだろう(そして8人のソリストたち、ブラボー、でした。特に一番高い声の男性パートの方はブラヴィッシモ!)。レヴィ=ストロースやサミュエル・ベケットのテキストが断片化され、その断片が同時に読まれることによって、言葉は単なる音声の羅列になる(あまりに多層的になりすぎて、テキストを読むことができない)。第3楽章では、有名な過去の作曲家のテキスト(作品)が同じように断片化され、多層的にコラージュされる。今回の演奏では、特にそのフレーズが「ホンモノらしく」、そのフレーズが抜き出される前の文脈のとおりに演奏されることでさらに音楽のゲテモノ感/怪物感が高まっていた(個人的な印象だけれども、私はこの曲を聴くとカフカの短編に登場する『オドラデク』について考えてしまう)。



武満徹:ノヴェンバー・ステップス
小澤征爾 トロント交響楽団 鶴田錦史 高橋悠治 横山勝也 武満徹
BMG JAPAN (2007/11/07)
売り上げランキング: 2126




Berio: Sinfonia; Eindru
Berio: Sinfonia; Eindru"cke
posted with amazlet on 08.01.19
Luciano Berio Pierre Boulez Ward Swingle Swingle Singers Orchestre National de France Regis Pasquier
Erato (1992/04/28)
売り上げランキング: 11071






コメント

  1. 生でアステリズム、羨ましいです!
    武満作品の中で、最もクラスターの密度が高い作品の一つがテクスチュアズで
    アステリズムはその次くらいの密度です。
    前衛を追いかける武満の筆が随所に見られ、やはり当時は印象や音響の派手さのほうが武満にとって重要だったと思えます。(もちろんレクイエムや後期はそんなことないです)
    確かにアステリズムにも協和音が現れるのですが、不協和音を多大に鳴り響かせた後急に協和音、というやり口。
    この時間の流れ方は印象や音響のやり口であると言えるでしょう。協和音すら不快に聴かせる印象操作。

    返信削除
  2. クラスターの素材の密度はテクスチュアズの方が高いですが、曲全体を通して聞くとアステリズムの方がマッシブに聞こえてしまいます。

    返信削除
  3. たしかに《アステリズム》には「前衛を追いかける武満の筆」がわかりやすく認められますよね。私は会場で初めて聴いたんですが、弦楽器が少しずつズレながらクラスターになるところなど「なんだかんだ言って前衛だったのだなぁ」とか思ってしまいました。ただ、(川島素晴さんも日記に書かれておりましたが)東京文化会館という環境では少し印象がボヤけるかもしれません。サントリーなら全然違う曲に聴こえた気がします。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か