W・ベンヤミン
岩波書店
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『パサージュ論』第2巻は「蒐集家」、「室内、痕跡」、「ボードレール」の項目を収録、大部分が「ボードレール」のページで、私はこの詩人についてよく知りませんので、その辺はキツかったです。でも、その他の項目は面白く読みました。とくに「蒐集家」について。これはベンヤミンのほかのエッセイでも取り扱われている内容だと思うんですが(例えば『ベンヤミン・コレクション2』に収録されている「蔵書の荷解きをする」とか)、ひとつの断片におけるまとまりが他よりもしっかりしていて読みやすいです。ここでベンヤミンが語る蒐集行為とは、そのモノが持つ機能のために集められているのではなくフェティッシュ(物神的な)な行為です。お金は使わないと単に紙切れなのにそれ自体に価値があるように貯えているヤツがいる、そうした現象をマルクスは物神化作用と呼びましたが、読みもしない本や聞き返さないレコードを抱え込んでいる人などもこの類いに入ってしまうわけです。
しかし、蒐集されたモノは単に集められるわけではない。蒐集家によってモノは秩序づけられ、意味付けられ、そこには世界が構築され、ベンヤミンによれば、パリのパサージュはこのような「一人の蒐集家の手のうちにある所有物であるかのように考察され」(P.12)ます。ガラスと鉄骨の屋根の下に立ち並んだ小さな商店は、蒐集家に意味付けられたモノのアレゴリーになるのですね。
建築物を秩序づけられた世界と読み解くのは、なにもベンヤミンが初めてではなく、フランセス・イェイツやライナルド・ペルジーニの著作を紐解けば、ルネサンス期のイタリアで大きな盛り上がりを見せていることが分かります。古代記憶術の伝統から生まれたジュリオ・カミッロの記憶劇場では、通常の劇場であれば、観客が座って舞台を眺めるであろうところに同心円上に秩序体系化された知識が配置され、宇宙を形成します。
このようにカミッロの記憶劇場とベンヤミンのパサージュは、仕組みとしてよく似ているように思われるのですが、決定的な違いは、前者が利用者が舞台から観客席にある知を一望監視するのに対して、後者は線的に通りを歩きながらでなければ辿れない、というところにある。言わば、ランダム・アクセスかシーケンシャル・アクセスか、みたいな違いです。ここにベンヤミンにとっての記憶のイメージが象徴されるように思われました。もしベンヤミンがランダム・アクセス型のイメージを持っていたら彼は、パサージュではなく、百貨店、とくにギャラリー・ラファイエットについて書こうとしたかもしれない、と妄想してしまう。
「室内、痕跡」には、「蒐集」と地続きな部分(室内が箱庭的に住人の心的世界を表象するものである、みたいな)もあるのですが、室内はなんらかの生活様式や伝統を模倣する生活空間であり、その痕跡として読み解かれます。現代で言うなら、本人は自由意志に基づいて生活しているつもりなのに、マガジンハウスの雑誌に書かれたライフスタイルなるものをなぞっているだけだった、個性的でシャレオツな生活は、なにかの痕跡でしかない、みたいな感じでしょうか。ベンヤミンがどんなことを言おうとしたのか、分量も少ない断片からはよくわからないんですけれど、消費社会論の嚆矢っぽいところが読み取れる気がします。
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