スキップしてメイン コンテンツに移動

ジョスリン・ゴドウィン 『キルヒャーの世界図鑑: よみがえる普遍の夢』

キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢
ジョスリン・ゴドウィン
工作舎
売り上げランキング: 277389
おそらく日本語の本で「キルヒャー」の名前をタイトルに入れてる本はこれだけでしょう(アタナシウス・キルヒャーという17世紀に活躍したイエズス会の修道士については当ブログでも何度も言及しておりますので、どういう人かは各自ググったりしておくこと)。ジョスリン・ゴドウィンによる本書は、キルヒャーが出版した書物から愉快で、奇怪な図版を抜き出して、図像からキルヒャーの思想を読み解こう、という内容。この著者はまったく同じ手法で、イギリスのロバート・フラッドについても一冊本を出しています。キルヒャーとフラッドってフランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』でも、ポスト・ブルーノの思想家として扱われるなかなかの重要人物、ではあるのですが、ゴドウィンの記述は、両者をビザールな人、ってだけの扱いにとどまっていて、フラッドの本を読んだときも思ったけれど、ストーリーを感じることができないのが残念。正直、図版を眺めるだけなら原書でも良いんじゃ、っていう。

そのあたりの原書そのもののパワーの弱さを補うためなのか、邦訳にはボートラ的に澁澤龍彦、中野美代子、荒俣宏が文章を寄せているんですが、荒俣先生以外は正直ほとんど読む価値なし。中野美代子の文章は、『シナ図説』という当時のイエズス会宣教師のネットワークを駆使して極東から寄せられた情報をもとにキルヒャーが作った中国についてのヴィジュアル百科事典的書物の「おかしな点」をあげつらうばかりで、ゴドウィンとレヴェル感は変わらないし、澁澤にいたっては、紙の無駄ですよ(本文と重複しまくるキルヒャーの略伝で半分ぐらいスペースを使っている)。 信じられるのは荒俣先生だけ!

ここでの荒俣先生は、まず、キルヒャーが図像を用いた理由を「活字印刷本の普及とともに『見ながら考える』、『考えるために見る』、という今日的思考方式が、ラテン語などの通じない蛮地へおもむきつつあったイエズス会の布教技術と通じる本質を備えていたためである」とし、ポスト・キルヒャーの人物を3人紹介しています。この3人の人物の紹介は、面白人物の紹介、という感じで終わっている感があるんですけれども、冒頭のキルヒャーのヴィジュアル・ショック戦略の評価によって、本書で紹介される図像の数々の意味合いが変わってくる気が。

つまりこの評価によって、キルヒャーの図像群が「おもしれ〜、ぶひゃひゃ!」で終わるものではなく、それが何らかの理解を促すためのツールであり、シンボルであった、という位置づけがされるわけで、これは、イエイツの仕事を持ち出すならば『記憶術』の内容や、あるいは、ジョルダーノ・ブルーノが用いた秘印を連想させます(ブルーノは、著作のなかで謎めいた記号を用いることで、神秘的な秘術を伝えようとした、とか)。ヴィジュアル・ショックの系譜学を描くなら、キルヒャーは相当に重要であるなあ、と思わされます。単にゲラゲラ笑ってるだけだとあまりに広がりがなく終わってしまう本になってしまうので、これは荒俣先生のナイス・サポートが光る! と個人的に思いました。

あんまり本書を褒めてないですが、つまらない本ではなかったです。ビザールな図像を眺めてると愉快な気持ちになりますし、ただ、読みどころが結構難しい気がするんですよね。荒俣先生の解説みたいにちょっとしたところから、ストーリーが見えるときがあるんだけれども、本の方から雄弁に語りかけてくるようなものでもないです。やはり種本なのかなあ、と。キルヒャーの伝記的記述とか読んでて面白いんですけれどね(フラッドの本も伝記部分が良かったです)。彼はドイツ生まれのイエズス会修道士ですから、30年戦争とかで大変な目にあってたりするわけです。「ドイツって新教徒の地域でしょ〜」なんとなく思ってたんですが、新教徒のなかにもいろいろいたし、キルヒャーみたいにカトリックだっていて、一枚岩では全然ない。そのへんの思想地図をちょっと調べてみたいなあ〜、とか思った。

あと、イエズス会がほぼ全世界に張り巡らせていたネットワークが改めてスゴいな、と。前述の通りこれを利用してキルヒャーは各地の情報を集め、エジプトや中国について本を書いてたんだけれども、このネットワークはその後なんかに使われてたりしないんだろうか……(ピンチョンの『競馬ナンバー49』にでてくるトライステロは、中世の騎士団が起源となった秘密郵便組織だっけ……? そういうのも連想する)。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...