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マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』(1)スワン家の方へI

ベンヤミンを読んだりしていたらプルーストを読み返したいな〜、と思っていたんですが、さすがになかなか着手できず、しかし、その瞬間はいきなりやってくるわけで、ある休日の昼にオニオン・スープを作っているあいだ、パラパラと読み返していたら、もう完全に再読モードに入ってしまっていたのでした。この集英社文庫のヘリテージ・シリーズにこちらの鈴木訳がはいりはじめたのがまだ学生の時分、第13巻を読み終えたのはこのブログによれば2007年4月とあります。ひとまず第1巻を再読了!

例のごとく細部の記憶は一切ない状態での再読なんですけれど「え、こんなに面白かったっけ!?」と驚きながらページをめくり続けていたのは、私のほうの読み手としての変化もありつつ「ガッツリとした強烈な物語性みたいなものはない」ということを知っているからでもある気がします。個人的な趣味としては、こういうのって完全にストライク・ゾーンから外れるんですが、読んでいて気持ちよいテキストがページいっぱいに広がっているだけで楽しいですし、なにかひとつ、読み方が見つかるとすごく面白く読めるんだな、と思います。思い返すと初めて読んだときは「いま、俺はあのプルーストを読んでいるんだ!」と舞い上がっていて、ちゃんと読めていなかったような。

これだけ長いとホントにいろんな読み方があると思うんです。今回とても楽しく読めたのは、プルーストが描く細やかな人物描写でした。登場人物の趣味から性格からさまざまなことを語り手は分析し、批評するんですがその執拗な感じ、時にはまるで悪意でもあるのでは、という書きぶりがたまらなく良いのですね。例えば、語り手の祖母が、孫の部屋に美しい史跡や風景の写真を飾らせたいのに写真という機械による表現は通俗的だと考えて忌避した、とか、あるいは語り手の叔母に仕えていた女中が家庭にある医学書を読んで、その痛々しい描写に涙する、とか、ひとつひとつが小話みたいに面白い。

もちろん回想小説でもあるわけですから、そのまなざしが語り手自身に向けられることもあって、そこも良いんですよ。眠れない夜に母親が読み聞かせてくれたジョルジュ・サンドの小説は恋愛描写が全部省かれていた、でも、その省略によって小説のなかの登場人物たちの関係性の変化が神秘的なものとして理解された……とか。基本的には期待と幻滅の繰り返しがこの小説のライトモチーフのひとつだと思うんですが、これだけ妄想力があれば、そういう人生を送るわなあ……。

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