1920年の旧ルーマニアでユダヤ系の家庭に生まれたツェランは、第二次世界大戦中に両親を強制収容所で亡くしている。その出来事が彼の性格に傷をつけ、それを詩作にした……ざっくりとツェランについて紹介するなら、以上の文言ほど簡潔なものはないだろう。彼の詩作は、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という警句とほとんどセット販売のように語られ、そして実際、アドルノも「アウシュヴィッツ以降の詩」としてツェランに興味を持ち、実現はしなかったが対談の予定があった、と言われている(その対話はツェランの散文『山中での対話』で仮想的に実現された、と解釈される)。ひどい言い方をすればツェランは「悲劇の人」であり、それだけにその評価には同情票みたいなものがあるのでは、と思わなくもない。解説での視点もそうした「悲劇について書き続けた人」として作品が解釈がおこなわれているし、ツェランの作品を読むにつれて、アドルノがツェランに接触しようとしたのも、自分が体験しなかった/できなかった(そしてベンヤミンが受けた)傷を味わってみたかったのでは? という勘ぐりさえしてしまった。
最も有名な作品が「死のフーガ」という身も蓋もないタイトルだし、ここで読めるツェランの作品はすべてが自分の体験した出来事と結びつけて読むこともできる。死、喪失、痕跡、そうした強いイメージが平易な言葉や、転がるようなリズムと速度の音のなかでより一層深刻さ・乾きを浮きだたせる(訳はその雰囲気をかなり再現しているように思われる)。その一方で、これらの作品を、すべてツェランが体験した悲劇と結びつけて良いものなのだろうか? とも思うのである。彼の詩論を読めば、悲劇とはおよそ関係なく、ツェランが典型的なロマンティストであることがわかる。詩が時間を通り抜けて、永遠性へと到達し、どこかの誰かである「あなた」に届く可能性を、ツェランは詩にかけていた。それはアドルノが、批評において音楽を言葉に移し替える際に翻訳不可能なもの(浮動的なもの、とアドルノはそれを表現する)を捉えようと努力したこととも通ずる。
これに対してエリック・ドルフィーは「音楽は終わってしまうと共に消え去ってしまい、二度とそれを取り戻すことはできない」と言う。それは圧倒的に正しい。詩は永遠性を獲得することや、音楽の周りにうようよと漂っているサムシングを言葉で捉えつくすことは不可能だ。しかし、だからこそ、ツェランやアドルノはロマンティストなのであり、そうしたところから、私は、悲劇と切り離してツェランを読むことも可能だし、悲劇や傷から彼の作品を読むのは少し貧しいことなのでは、とも思う。
ここで後期の『誰でもないものの薔薇』から「頌歌(Psalm)」を引用しよう(P.63 - 64)。
頌歌解説においてはツェランが、救済してくれなかった神に対する恨みをこめたもの(神に対する頌歌が、誰でもないもの、無へと捧げられている皮肉)とされている作品だが、誰でもないものの薔薇として咲き続け、そして同時に無である「ぼくら」は、支えるものが何もないイメージが湧いて、ツェランの思いがどうだったか別に、私はこの詩が一番好きだ。無でありながら、ぼくらは真紅の薔薇である、その矛盾のなかに、なにか、あったかもしれないこと、ありえたことに対する思いのようなものがチラつくような気がして良い。
誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
誰でもないものがぼくらの塵に呪文を唱える。
誰でもないものが。
たたえられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために
ぼくらは花咲くことをねがう。
あなたに
むけて。
ひとつの無で
ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
ありつづけるだろう、花咲きながら——
無の、誰でもないものの
薔薇。
魂の透明さを帯びた
花柱、
天の荒漠さを帯びた花粉、
茨の棘の上高く、
おおその上高くぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
花冠。
Psalm
Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.
Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.
Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.
Mit
dem Griffel seelenhell,
dem Staubfaden himmelswüst,
der Krone rot
vom Purpurwort, das wir sangen
über, o über
dem Dorn.
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