スキップしてメイン コンテンツに移動

再創造……?




アメリカで開発されたコンピュータ・ソフト「ZENPH(ゼンフ)」は、オーディオデータを読み込み、それがピアノであればキータッチや音量、ペダルの踏み込み加減まで、完全にデータ化出来るというソフトです。このソフトがあれば、古い時代のSPやLPの音源をデータ化し、MIDI対応のグランドピアノなどで再生することが出来るわけです。往年の巨匠達の演奏が、リマスタリングやリエディットではなく、“最新の録音”で楽しめるのです。


”Re-performance” 再創造されるグールドの『ゴールドベルク変奏曲』1955年盤 - HODGE’S PARROT



 もしもこの技術が普及することになったら、私はすぐさま灯油をもってHMV、タワーレコードへと駆け込み、「ZENPH」によって演奏されたアルバムの全てに火をつけなくてはならないだろう。レコード会社もこんなものにプロモーションの資金を投げ込むならば、現代の生きているピアニストへとスポットライトを当てるべきだ。この技術は、グレン・グールドというピアニストのゾンビを墓場から暴きたてるようなものでしかないように思う。


 楽譜を読み、そしてただ一つの解釈を生み出すという通常の演奏行為を拒否し、スタジオにこもって何バージョンかの録音を録って「良いもの」を選び出す作業に徹していたグールドにとって演奏行為とは「差異の戯れ」だったはずだ(だからこそ、グールドは真にピアノをplayしていたのだ)。そのグールドの演奏が「再演」されるようなものになるとはとんだお笑い草である。


 早々とこんな技術は粗大ゴミにでも出してしまった方が良い。ゾンビが弾いているバッハやベートーヴェンなんて誰が好んで聴くだろうか。





コメント

  1. グールドはオリジナルって考えを否定したからライブをやめたんだと思います。生き生きとした現前というのは幻想で、完璧なゾンビがあればそれでいい。そう考えていたんじゃないでしょうか。デジタル録音にこだわってたし。だから、差異の戯れっていうより、反復との戯れじゃないかな。

    返信削除
  2. オリジナルという考えを否定した、というところには同意できますが「完璧なゾンビがあればそれでいい」とはいえないと思います。むしろ「完璧なゾンビ」というただ一つのものを目指していたわけではなく、グールドの録音方法は「無限に存在する解釈の銀河系を表していた」と思うのです(だからこそグールドはいくつかの曲を全く異なる解釈で再録音しているように思います。そしてここにグールドとマクルーハンを繋ぐキーが存在する)。
    映像記録でグールドが「この部分とこの部分をつなげられないかな」とエンジニアに指示を出すのをみると、そのような完璧な一つの演奏を構築しているように見えます。しかし一方では、いくつかのテンポが異なる演奏してみせ、「自分ではない誰かに好きなものを選ばせる」という構築の放棄をおこなっているわけです(『好きな演奏の選択がレコードの聴衆によってされればよい』という主旨の発言もグールドは行っていたはずです)。
    まぁ、ここで「グールドの意図」について何か言っても仕方がないのですが、あくまで私のグールド解釈はそのようなものである、という補足です(エントリが説明不足な気もしたので)。ひっかかってしまうのはそのように「オリジナルを否定したグールド」が再演されるべきオリジナルな対象物として祭り上げられている、という事態です。

    返信削除
  3. あ、すみません。コメントくださった、higyさん。どちらの方でしょうか……?

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か