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シュトックハウゼンとはなんだったか?




1954年→最初の電子音楽《習作I・II》の製作

1956年→電子音楽《少年の歌》で、電子音楽とミュージック・コンクレートを結合。さらにトータル・セリエリスムが操作する4つのパラメータ(音価、音量、音程、音色)に「空間」の概念を加えることを提唱。さらにこの年は、《ピアノ曲XI》でヨーロッパで初めて不確定性を音楽に導入した

1957年→《グルッペン》にて、音群作法を提起(音を集合的な塊として操作する方法。これはトーンクラスターと通じている)

1960年→《カレ》にて空間音楽の概念を提起。また電子音、ピアノ、打楽器のための《コンタクテ》は、ライヴ・エレクトロニクスの先駆となる

1964年→《モメンテ》にて瞬間形式を提起

1966年→《テレムジーク》にて「テレムジーク」概念を提起

1968年→《一つの家のための音楽》で「遊歩音楽会」の先駆となる。そしてこの年、《七つの日より》によて「直観音楽」を提唱


以上は、カールハインツ・シュトックハウゼンの1950~60年代の主な業績を簡単にとりまとめたものである(佐野光司『直観音楽――神となったシュトックハウゼン』を参考に記述した)。シュトックハウゼンという作曲家を語る人の多くが、語りのポイントをおくのがこの時期の作品だと思う。「シュトックハウゼン=電子音楽の人」という認知は広く(?)一般的であろう。こうして年譜を眺めてみると、この時期(20年弱)のシュトックハウゼンの創作意欲には驚かされるばかりだが、逆に言えば直観音楽以降の彼の作品はあまり知られていないし、そこまで注目を浴びてこなかった、ということが言えるのではないだろうか。たとえ、注目を浴びたとしても「ヘリコプター+弦楽四重奏」や「上演時間29時間」といった作品の規模の「大きさ」や「突拍子もなさ」についてだけであったように思う――大きな転回点となったのは、やはり直観音楽である。


私は短いテクストを通して、音楽家達が精神的に合致することによって生まれるこの音楽を<直観音楽>と名付けた(シュトックハウゼンによる『七つの日より』のプログラム・ノートより)。


直観音楽以前にも、即興や演奏家による解釈といった計量/操作不可能な音楽の要素にシュトックハウゼンは注目しており、そこには既に直観音楽の萌芽を見ることができよう。しかし、直観音楽がジョン・ケージやフルクサスらの「即興性」や「ハプニング性」と一線を画したものである点は、それが「理論」であった、というところにある。

それがどのような理論であったのか。おそらく、それはシュトックハウゼン自身にしか、性格に説明することが不可能な「理論を超えた理論」ということができるかもしれない。以下では彼自身による直観音楽の規定を引用しておこう。


見出されるべき多くの音楽プロセスは、より根源的な、より高度な形成力を示唆しており、それは真に超理性的で直観的な源泉に存することを我々は体験してきた。全ての音楽的思考は、直観音楽を演奏する時、この超理性に仕えるのである。(中略)ここでは思考は、どの瞬間においても直観的霊感そのものに、全く意識的に従うのであり、またそれは直接的に、非反省的に(演奏の瞬間には反省の時間はない)、したがって非弁証法的に、機械的に生ずるのである


……引用部を読んでいただければ、直観音楽の超理論性に触れることができる、と思う――そもそも、この引用は「シュトックハウゼンの言い分を理解すること」を目的としていない。ここでは、むしろこの理論の理解のしがたさについて知っておいてもらえば充分である。しかし、ある種のセンスをお持ちの方ならば、シュトックハウゼンの文章を読んでこんな風なことを考えたのではないだろうか、と私は想像する――「これは理論というよりも、思想、それも宗教的な思想なのではないだろうか」と。また、そのような感想は、見当外れのものではない。実際、この時期のシュトックハウゼンはインド哲学や東洋思想に自らを理論武装する題材を求めていたらしい。


音楽家は自己中心を捨て去ることを学ばねばならないのである。さもなければ自己は自己のみしか表現出来ないし、自己とは情報の一杯詰まった大きな袋以上のものではないのである。そのような人々は閉じられたシステムと同じだ。(中略)そこには表現すべきものは何もない


彼はまたこのような発言もおこなっている。これは、システム論的にも読める興味深いものなのだが、ますます直観音楽が宗教めいたものである、という印象を色濃くする発言であることは間違いないだろう。自己、自我、理性――それらを直観音楽は放棄し、直観に従うことによって音楽をおこなわなくてはならない。また、演奏者が従う直観とは、直観によって書かれた(シュトックハウゼンによる)テキストに違いない。

佐野光司はそのような音楽のあり方を「直観音楽における演奏者は、シュトックハウゼンの示したテクストに対して、自己を無にして完全従属するものでしかないのではないだろうか」という疑問を呈している。おそらく、この疑問には、自己中心的な音楽を「閉じたシステム」として批判するシュトックハウゼンの音楽もまた「閉じたシステム」となっていることの指摘が含められているだろう。「シュトックハウゼンは、自己の示したテクストから直観的な霊感を得るために、無の存在となった演奏者たちを巫女として神となるのである」――佐野の批評はこんな風に締められているのだが、これは「シュトックハウゼンはカルトだ」と言うのとあまり変わりがないようにも思ってしまう。

ただし、ある意味で佐野の指摘は正しい。シュトックハウゼンのカルト性は「シュトックハウゼン講習会」という、自らの作品を自ら解説し、その正しい解釈を広めていく、という秘教性からも指摘することができる。また、彼の作品の初演が、彼が絶大な信頼を寄せる演奏家を集めて入念なリハーサルを仕込むことで可能となったことなどもややカルト的な印象を受ける。

ただ、これはそのような「カルト性をもっているように少なくとも私には思われる」という指摘であって、批判ではない。むしろ、シュトックハウゼンがそのようなカルト的な作曲家でありえた、ということは大きく賞賛すべき内容だったのではないだろうか、と私は思う。シュトックハウゼンの音楽は「シュトックハウゼン」というジャンルとして成立しているように見える事態は、ロマン派が夢見た「総合芸術」や「絶対音楽」といった理想の実現とも重なっていく――「シュトックハウゼンはロマン派的な最後の作曲家だった」という一蹴されそうな妄言をつぶやきたくなるが、個人的にこれを妄言だとは思っていない(ワーグナーもマーラーもシェーンベルクも、常に『自分だけの音楽を確立すること』を目指していたのだから)。

また、常に新しい作品を作り続けていた姿勢においても、彼が「伝統的な/古典的な自律する作曲家の姿」を体現していたことは間違いない。彼の死は、そのような作曲家が絶滅したことを告げるような寂しい知らせだった。




コメント

  1. まっちゃん@シリウス日曜日, 16 12月, 2007

    興味深く読ませてもらいました。

    シュトックハウゼンの作品を語る時に、しばしば「直観音楽以降」という言葉が使われますが、その後のシュトックハウゼンの作風の変遷を考えると、このくくりは適切で無いと思います。
    1960年代後半に彼は友人達と、様々な即興演奏を試みましたが、直観音楽はその終着点に位置します。
    様々なクリシェに陥ってしまう即興演奏を嫌った彼は、短波放送に反応して演奏するなど様々なことを試みましたが、究極の素材として「超意識」からやってくるもの(いわば演奏者自体がラジオのような存在になってそれを「受信」する)を使用した、というだけの話です。
    「超意識」というのは(厳密には意味が違いますが)「インスピレーション」と置き換えると分かりやすいかもしれません。

    一般的な即興演奏とは違う、という特別な意思を強調するために「直観音楽」と名付けた訳で、「宗教」と言ってしまうと、かなりニュアンスが違ってしまうと思います。

    引用されている部分だけ読む限り、佐野氏は「シュトックハウゼン=いかがわしい」という結論ありきで論を進めている悪意を感じます。

    #あと、引用されている訳文よりもう少し読みやすいものも紹介しておきます。
    http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/linerNotes/CD14/Aus_Den_Sieben_Tagen_I.html

    >また、演奏者が従う直観とは、直観によって書かれた(シュトックハウゼンによる)テキストに違いない。

    シュトックハウゼンの書いた演奏のためのテキスト(=楽譜)は、前述の「超意識」を誘発させるような言葉遣いをしていますが、ちょっと分析してみると、そこで誘発された音素材を、音楽的に変容、展開させていくような、即興演奏の手引きのような仕掛けを持っている、つまり忘我状態でテキストを書いた、というものではなく、通常の「作曲」のような思考で書かれたもののように思われます。

    従って、佐野氏の「直観音楽における演奏者は、シュトックハウゼンの示したテクストに対して、自己を無にして完全従属するものでしかないのではないだろうか」という指摘は完全にお門違いな批判です。あたかもシュトックハウゼンに洗脳支配される、とでも言わんばかりですね。
    この言い方を借りると、一般的なクラシック音楽はすべて楽譜に完全従属している(「解釈」の余地があるとしても)、と言えますので、シュトックハウゼンだけが特別ということにはなりません。楽譜がテキストの形をしている、というだけの違いです。

    佐野氏の締めくくりの「シュトックハウゼン=神」という図式はよく悪意を持って使われますが、これも完全な偏見に基づく表現と言えます。
    彼はカトリックの熱心な信者で、来日公演での質疑応答でも、「私のすべての作品は神を讚えている」と言っていたのが非常に印象的でした。つまり、彼は神に仕える一人の人間に過ぎないのです。

    >「シュトックハウゼン講習会」という、自らの作品を自ら解説し、その正しい解釈を広めていく、という秘教性
    私は何度もこの講習会に参加しているので断言できますが、「秘教性」とは全く逆です。秘教的にしたいのなら演奏法をごく身近な人以外にもらさないのが最善の方法ですから。
    彼は、生涯にわたって新しい事にチャレンジしそれを作品に反映させていくのですが、それをどんなに細かく楽譜に書き込んだところで、完全な彼の意思を把握する事は不可能です。場合によっては詳細な楽譜はあるのに全く練習の仕方が分からない、ということもあり得ます。そして実際、壮大な勘違いをしたままの演奏が多く行われている現状も彼は痛感しています。
    作曲者本人がそのまま死んでしまったら状況は悲惨なものになるでしょう。

    そうした事態を避けるためにこの講習会を行っているのです。

    そして、
    >彼の作品の初演が、彼が絶大な信頼を寄せる演奏家を集めて入念なリハーサルを仕込むことで可能となった

    これをカルト(批判の意図はないと言え)と呼ぶなら、全ての音楽はカルト的に演奏されるべきであろう、と言わなくてはなりません。
    様々なチャレンジが彼の作品の中で行われているため、演奏可能な状態にするまで実際それだけのリハーサルが必要ですし(歴史的な作品でもそういうエピソードはいくつかあると思います)、逆に、今の音楽界の現状では数回のリハーサルだけで質の低い演奏がなされているという現状をシュトックハウゼンに見習って改善していかなければならない、と思います。

    長文失礼しました。

    返信削除
  2. コメントありがとうございました。川島素晴さんのmixi日記などを読ませていただいていて、このエントリを書く際にも、松平さんが「直観音楽以降」という区切りに対しての違和感を書いているのを知っていたのですが、あえてそのまま書かせていただきました。「一般的な(専門的ではない)現代音楽ファンにとってのシュトックハウゼンに対する理解は、こんなものか」という感じでお読みください。
    ひとつ質問なのですが、シュトックハウゼン作品を演奏する際の「解釈の余地」とはなんなのでしょうか。講習会に参加することによって、彼の意図を汲み取ることができるようになるかもしれません。ただし、その場合、演奏者の自由はどこにあるのでしょうか。ベートーヴェンを演奏する際でも、シュトックハウゼンを演奏する際でも、演奏者がテキストに従属している、という点には変わりがありません。しかし、後者に「作曲家の正しい意図が再現されていなければいけない」という規律が敷かれているのだとしたら、演奏者の自由は制限されることとなる、と思うのです。
    私には、講習会を開いて「正しい解釈」を広める、ということはそのような演奏者を介することによって生まれる「計量不可能性」、あるいは「不確定性」を縮減するためにおこなわれているように思われたのですね。秘教性・カルトという言い方が悪ければ、シュトックハウゼンと演奏者の間には「シュトックハウゼンシステム」とでも言えそうな関係が敷かれている……というように思えるのですが。ただし、これは批判でもなんでもなく(本文でもそのように書いておりますが)、むしろそのようなシステムを構築できたところに、シュトックハウゼンのすごさがあるように思います。

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  3. 単なるルサンチマンにしか聞こえませんが……。

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  4. 「まっちゃん@シリウス 」君の場合は詳しいのは確かだが、シュトックハウゼン万能主義ですね。
    これを解釈することによって他の作曲家も克服することができるという考え方には疑問です。
    彼のところの宗教を持ち出すといつも嫌がりますが、やはり自覚不足だと思います。
    今まで日本はシュトックハウゼンは一部のマスコミを除いて軽く見られてきましたが、
    その反動として厚遇ばっかりするのも問題です。
    シュトックハウゼンを重要視する余り、ノーノやケージ、ブーレーズ、クセナキスなどがおろそかになっては元も子もないからです。
    彼らにもっと興味をもたれることを希望します。
    そしたらシュトックハウゼンになかった事柄が見えてくるでしょう。
    確かにバッハやワーグナーは凄いけどそれだけが音楽のすべてではありませんね。

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  5. コメントありがとうございます。しかしながら本日は2点ほど、菅野さんのコメントに対して否定的な返信をさせていただきましょう。まず、1点目は「シュットクハウゼン万能主義について」です。私には松平さんの考え方がとても万能主義には思えません。あくまで「技術の向上のためのプログラム」の例として、シュトックハウゼンが楽譜に書いた「指示を守るための練習」をあげているだけであって、松平さんの主旨はシュトックハウゼンに限ったものではないと思います。「これを解釈することによって他の作曲家も克服することができるという考え方」を菅野さんは誤解しているように思うのです。

    もう1点は「すべての作曲家の専門家になることは不可能である」ということです。ここでもまた松平さんを擁護するようなことを言いますが、松平さんはシュトックハウゼンばかりを厚遇しているわけではないでしょう。ノーノやケージ、ブーレーズ、クセナキスなどにも興味がもちろんおありでしょうし、少なくとも(一般的なリスナーである)私以上には熟知されていると思います。しかし、松平さんはそのなかからシュトックハウゼンを専門として選択した、というただそれだけの話だと思うのです。

    逆にそのような選択をおこなわず、ノーノやケージ、ブーレーズやクセナキスに手を出すことによって、選択すればある1つのことが見えたかもしれないのに、手広くやってしまうあまり1つも見えなくなってしまうということがあり得ます。ここでリカードの例を出す必要はないでしょうが、ノーノやケージなどは他の人がやれば良いでしょう。菅野さんが「彼らにもっと興味をもたれることを希望」するのであれば、あなたがそれをやれば良いでしょう。そこであなたが「この事柄はシュトックハウゼンには存在しない」という指摘をおこなえば良い――と私はそんな風に思いました。

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  6. 否定的見解はOKです。しかし僕は彼の文面からは彼の取巻きに定型的な、宗教的境地を感じます。

    しかしながらシュトックハウゼンについて彼が書いていることで新しいものは特にないと思います。
    昔から長年「音楽芸術」を読んできましたが、こう言うことは既に何回も書かれたことですね。
    特に間違っているわけではありませんが、新鮮味があるわけではないです。
    ことを特に新鮮に感じるのは日本ではそういう方面の先生が不足しているのでしょうか?
    その意味ではこういうことは理解できます。

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  7. まっちゃん@シリウス日曜日, 11 3月, 2012

    >シュトックハウゼン作品を演奏する際の「解釈の余地」とはなんなのでしょうか。

    例えば通常のクラシック音楽の演奏において、4分音符を演奏する時にフレーズの作り方で、記譜されていないディミヌエンドを行ったり音価を少し短くしたり、という作業が意識的、無意識的に行われますが、これは演奏者の裁量に委ねられていると共に古典派、ロマン派などの様式感とも関係します。
    ですからこれらの音楽に「解釈の余地」があるといっても、「作曲者の想定した様式感のなかにおいての自由」という前提があります。

    シュトックハウゼンの音楽のスタート地点にトータル・セリエリズムがありますが、これは音高だけでなく、従来補助的なものに思われていた音価、強度(あるいはその他の様々な要素)といった要素も「本質的」なものとして作曲する、というものです。
    こうした音楽を演奏する時に、ベートーヴェンなどを演奏するつもりで、四分音符を多少短く、ディナーミクや(メトロノームの)テンポの指示はそれほど厳密でなくても良いかな、と思われて演奏されると、その作曲上の意図は反映されなくなってしまいます。つまり「トータル・セリエリズムの演奏様式」から外れてしまいます。

    これは「解釈の余地」の問題ではなく、別の作品になってしまうことを意味します。

    言ってみればバッハをショパンの様に演奏するようなもので、作曲者にとってそれが耐えられないのは想像がつくと思います。自分の作品をどのように演奏すべきかは、バッハやベートーヴェンも弟子を通じて伝授しているはずで、シュトックハウゼンもそれと同じ事をやっているに過ぎません。
    古楽の分野でもルネサンスやバロック音楽はどのように演奏されるべきなのか、というのを様々な文献を駆使して研究、演奏されてますよね。

    不確定性や演劇性を用いた作品になると、実際に演奏してみるとたちどころに直面するのが、どこまで自由にできるのか、どのように自由にできるのか、という匙加減の問題で、作品のアイデンティティの壊れてしまう危険はもっと高くなります。

    従って、シュトックハウゼン作品の演奏様式が後世に受け継がれていく事は、「作品そのもの」が生き残っていくための極めて重要な問題なのですが、それでは「シュトックハウゼン様式」というのはそもそもどのようなものでしょうか。
    リズムは音価通りに演奏する、テンポはメトロノームの通り、フレーズの最後をdim.せずきっちりのばす、rit.は元のテンポの半分まで、アクセント、スタッカートはきちんと守る、などソルフェージュ的なことを徹底する、ある意味当たり前なことばかりです。(でもそれが意外にできないものなのです)
    講習会に行く事により、こうしたことをどのような方向性で練習すれば短期間で上達するのか、というノウハウを得る事もできます。

    そしてこれは、この「シュトックハウゼン・システム」をマスターすれば他の作曲家の作品の演奏にもとても役に立つ事も意味します。

    さて、ご質問のシュトックハウゼン演奏における「解釈の余地」ですが、前述の通り、音価、強度など一見がんじがらめのように感じられ、そんなものなどない、と思われるかもしれません。
    実際スコアに書いてある通りに演奏するだけで極めて長時間の練習を必要とします。

    しかし、その困難な段階を越えると「自由」が開けるのです。
    音符の長さやテンポは、奏者による違いがほとんどないかもしれませんが、それでも演奏者によって演奏結果が全く異なるのは、非常に高度な次元での「自由」が存在している事の表れだと言えると思います。

    そして、これはシュトックハウゼンに限った事ではないのですが、演奏者は「解釈」ということの語源を考えなくてはなりません。
    解釈とはinterpretation、通訳のように「仲立ち」をするニュアンスがありますが、演奏者が作曲家と聴衆の仲立ちをする、というのが本来の意味です。時々誤解されているような、好き勝手にやるというのは「解釈」という言葉に名を借りた冒涜行為にすぎません。

    そして、私はある作曲家の作品を演奏する時には、自由にやるのではなく、作曲家の意図を出来るだけ汲み取った演奏をするように心がけます。
    一見どんなに厳密に記譜され自由がないように思われる楽譜にも、自分の演奏者としてのカラーが滲み出てくる隙間は無数にあるのです。それをあざとく見せびらかさなくても、作曲家に対する謙虚な姿勢があれば、演奏にその人のキャラクターが自然と出てきて、作曲家と演奏家の感性が上手い配分で合わさった良い音楽になると信じています。

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  8. 真摯なご回答ありがとうございました。シュトックハウゼンだけでなく、「演奏」それから「作品」という概念を考える際に、今後参考にしていきたい、と思える大変勉強になるコメントです。各演奏者による解釈のバリエーションが、私のような「聴衆」にも判断できる、そのような環境ができることを期待します(これはシュトックハウゼンに限らず……といったところですが)。

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  9. 他人の上げ足取り「まっちゃん@シリウス 」の馬鹿は、ここにも存在したか・・・。暇なインテリ野郎だ。

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