「ムネモシュネ・アトラス──アビ・ヴァールブルクによるイメージの宇宙」(公式ブログ)
ドイツの美術史家でヴァールブルク学派のゴッド・ファーザーであるアビ・ヴァールブルクは、生前、図版や絵画などのイメージをパネル上に配置し、そこから人類の歴史のなかで引き継がれてきたイメージの歴史を描こうとしました。このパネル群は「ムネモシュネ・アトラス」と呼ばれています。結局、そのパネル群から書かれるはずであった論文は未完のままヴァールブルクは亡くなってしまうのですが、彼がどんな歴史を描こうとしたのかは、後世の研究者たちによって今なお論じられているようです。東京大学駒場キャンパスでおこなわれている「ムネモシュネ・アトラス展」は、写真撮影して残されているムネモシュネ・アトラスの画像データを大判プリンターで印刷して再現する企画でした。今回は再現パネルだけでなく、日本版『ムネモシュネ・アトラス』の監修者である伊藤博明、加藤哲弘、田中純による新作パネルも用意され、ヴァールブルクの意図を拡張しよう、という試みがなされています。
会場に入ると案内役の学生さん(大学院の方でしょうか)がおり、パネル上の絵に関する詳細が書かれたファイルを手渡され、パネルのデータを参照しながら展示を観ることができました(これがちょっと重くてPDFをネットで配布してスマートフォンで参照できるようにしたらスマートなのでは……と思わなくもなかったですが)。そのファイルを確認しながら、じっくりとパネルを一周するのに大体1時間ぐらい。その後気になったものをまた確認していく……と合計2時間ぐらいかかってしまうでしょうか。小説や映画のように、絵画から読み取られるイメージには終わりがなく、何時間観たらそのパネルが「わかる」というものでもない、ですし、パネル上のそれぞれのイメージは他のイメージとの関連によって、無限に意味が創出されていく……! 的なヴァールブルクの意図がそこにはあったわけで、時間の許す限り観れるものではあります。
占星術関連の図版や絵画、彫刻、広告など使用されているイメージはかなり多岐にわたっており、コラージュ・アートのようにも見えるパネルもある。イコノロジーでは、図像からその背景にある文化的なものまでが読み取られることになりますが、ムネモシュネ・アトラスはその発展とも言えるのでしょうか。それぞれの図像がネットワークを結び、パネルを観る者は、そこに浮かび上がったなにがしかの意味を読み取ることになる。パネルを観ながらベンヤミンの『パサージュ論』((1)、(2)、(3)、(4))や、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』が思い浮かびましたが、これもひとつの表徴(Signatura)の伝統に位置づけられるのかもしれません。なにかとなにかの外見上の類似(表徴)が、因果的な根拠をもっている、というこの思考法は近代以前の自然学に見られ、例えば「歯の形に似ている植物は、歯の病気に効く!」などと言われていました(これを論じたものには菊地原洋平の『記号の詩学:パラケルススの「徴」の理論』があります。『ミクロコスモス』第1集に収録)。こうした思考法は近代科学の隆盛によって別な説明原理に置き換えられ駆逐されていくわけですが、批評の分野ではムネモシュネ・アトラスのように受け継がれているように思えたのですね。
会場にはヴァールブルク著作集(ありな書房から出ているモノ。高価)や各国版の『ムネモシュネ・アトラス』(パネルの写真の解説などがされている本。Amazonではなぜか日本版とスペイン版しか買えない)がありました。日本版『ムネモシュネ・アトラス』は今年の3月に刊行されており「なんかスゴそう、ちょっと欲しい……」と思っていたのですが、25200円という超マッシヴな価格に腰が引けていたので、ここで手にとれたのは良かった。日本版は辞書みたいな紙が使われてるんですが、他の言語の版では写真集みたいな印刷になっています。パネルを眺めるだけならば、日本版以外のをセレクトしたら良いのかな。今回の展示を観たらなんだか25200円分の得をしたような気分にも……。
ドイツの美術史家でヴァールブルク学派のゴッド・ファーザーであるアビ・ヴァールブルクは、生前、図版や絵画などのイメージをパネル上に配置し、そこから人類の歴史のなかで引き継がれてきたイメージの歴史を描こうとしました。このパネル群は「ムネモシュネ・アトラス」と呼ばれています。結局、そのパネル群から書かれるはずであった論文は未完のままヴァールブルクは亡くなってしまうのですが、彼がどんな歴史を描こうとしたのかは、後世の研究者たちによって今なお論じられているようです。東京大学駒場キャンパスでおこなわれている「ムネモシュネ・アトラス展」は、写真撮影して残されているムネモシュネ・アトラスの画像データを大判プリンターで印刷して再現する企画でした。今回は再現パネルだけでなく、日本版『ムネモシュネ・アトラス』の監修者である伊藤博明、加藤哲弘、田中純による新作パネルも用意され、ヴァールブルクの意図を拡張しよう、という試みがなされています。
会場に入ると案内役の学生さん(大学院の方でしょうか)がおり、パネル上の絵に関する詳細が書かれたファイルを手渡され、パネルのデータを参照しながら展示を観ることができました(これがちょっと重くてPDFをネットで配布してスマートフォンで参照できるようにしたらスマートなのでは……と思わなくもなかったですが)。そのファイルを確認しながら、じっくりとパネルを一周するのに大体1時間ぐらい。その後気になったものをまた確認していく……と合計2時間ぐらいかかってしまうでしょうか。小説や映画のように、絵画から読み取られるイメージには終わりがなく、何時間観たらそのパネルが「わかる」というものでもない、ですし、パネル上のそれぞれのイメージは他のイメージとの関連によって、無限に意味が創出されていく……! 的なヴァールブルクの意図がそこにはあったわけで、時間の許す限り観れるものではあります。
占星術関連の図版や絵画、彫刻、広告など使用されているイメージはかなり多岐にわたっており、コラージュ・アートのようにも見えるパネルもある。イコノロジーでは、図像からその背景にある文化的なものまでが読み取られることになりますが、ムネモシュネ・アトラスはその発展とも言えるのでしょうか。それぞれの図像がネットワークを結び、パネルを観る者は、そこに浮かび上がったなにがしかの意味を読み取ることになる。パネルを観ながらベンヤミンの『パサージュ論』((1)、(2)、(3)、(4))や、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』が思い浮かびましたが、これもひとつの表徴(Signatura)の伝統に位置づけられるのかもしれません。なにかとなにかの外見上の類似(表徴)が、因果的な根拠をもっている、というこの思考法は近代以前の自然学に見られ、例えば「歯の形に似ている植物は、歯の病気に効く!」などと言われていました(これを論じたものには菊地原洋平の『記号の詩学:パラケルススの「徴」の理論』があります。『ミクロコスモス』第1集に収録)。こうした思考法は近代科学の隆盛によって別な説明原理に置き換えられ駆逐されていくわけですが、批評の分野ではムネモシュネ・アトラスのように受け継がれているように思えたのですね。
会場にはヴァールブルク著作集(ありな書房から出ているモノ。高価)や各国版の『ムネモシュネ・アトラス』(パネルの写真の解説などがされている本。Amazonではなぜか日本版とスペイン版しか買えない)がありました。日本版『ムネモシュネ・アトラス』は今年の3月に刊行されており「なんかスゴそう、ちょっと欲しい……」と思っていたのですが、25200円という超マッシヴな価格に腰が引けていたので、ここで手にとれたのは良かった。日本版は辞書みたいな紙が使われてるんですが、他の言語の版では写真集みたいな印刷になっています。パネルを眺めるだけならば、日本版以外のをセレクトしたら良いのかな。今回の展示を観たらなんだか25200円分の得をしたような気分にも……。
アビ・ヴァールブルク 伊藤博明 田中 純 加藤 哲弘
ありな書房
売り上げランキング: 274658
ありな書房
売り上げランキング: 274658
コメント
コメントを投稿