今日はグールドの命日らしい

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 id:HODGEさんの日記にて知る。1932年生まれだから、生きていれば75歳(そうか、私の祖父母と同年代なのか)。HODGEさんの日記にはミシェル・シュネデールによるグールド論からの引用がなされていたが、この本を私は「すごく繊細に書かれてるけど、すごく見当違いなグールド論なんじゃないかな」と思っている。とくに「グールドのバッハ演奏ほどに、書法のあらゆる面にわたる読みのたしかさを感じさせるものはない」という一言。HODGEさんはパルティータ第6番と《フーガの技法》の演奏をあげているけれど、CDになっているパルティータの第6番や《フーガの技法》で選択されているテンポとこれらの動画のそれとでは大きく異なっている。《フーガの技法》などはそもそも楽器が違う(CDはオルガンを使用。グールドの伝記映画のエンディングでもピアノ演奏も披露している。ちなみにこの作品の演奏には指定された楽器は存在しない)。


 このような「テンポの違い」は解釈の変化として認識されるべきものではないのだ、と私は思う。グールドはバッハの解釈などおこなっていない。彼がしたことは、楽譜を演奏すること、ただそれだけのことである。1955年の《ゴルトベルク変奏曲》と、1981年の《ゴルトベルク変奏曲》との間にある差異を耳にしたとき、聴取するものは書かれた楽譜が一義的に解釈され、固定化されることへの拒絶へと導かれる。そこにある違いは「解釈の変化」や「解釈の完成」ではない。むしろ、その違いによって解釈という虚実をグールドは叩き壊そうとしているように私には思われるのだ(グールドが、他の演奏者とは極端に違った演奏を聴かせたのもそこに狙いがあったのではないだろうか)。おそらく浅田彰がグールドに惹かれる理由もこのような脱構築性にあるのだろう――ゆえにグールドの演奏が「たしかさ」なものと評することは、著しく不協和なものとなる。


 また、グールドが舞台から去り、スタジオへと篭ったのも「完璧主義」、「潔癖症」、「対人恐怖」といったところに原因があったわけではなく、むしろステージでの演奏という一回性をもった行為につきまとう、聴取者に「一義的な解釈」を押し付ける威光効果を回避するための戦略だったようにも思う。生の演奏は呼び起こす感動の類が、聴衆に「それが本当の/正しいバッハである」と信じ込ませてしまう、ということがグールドの「演奏」を妨げてしまうのである。


 ……などと適当に書き散らかしてみたが、このようにグールドを脱構築的な場所で評価することもまた不実である。上にあげた動画は、デビューして間もないころのグールドがオタワ交響楽団とバッハのピアノ協奏曲第1番を演奏したもの。この曲、すごくカキカキしたところがあって好きなんですよね。バッハの作品なんかどれもカキカキしてるかもしれないけれど、これはそのカキカキ感の見え方が他の作品よりもハッキリしているような気がする(それはピアノと弦楽器という音色が異なる楽器によって、声部の書き分けがより引き立っているせいかもしれない)。



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 寒くなってきたので、このCDも聴き返す季節かな。





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