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ハービー・ハンコック『River』




River: The Joni Letters
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Herbie Hancock
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 ハービー・ハンコックの新譜が発売されている。今回のアルバムの内容はジョニ・ミッチェルへのトリビュート(アルバムのタイトルになっているのもジョニ・ミッチェルの『Blue』に収録されている曲名)。ハービー・ハンコックとジョニ・ミッチェルはかつてお互いのアルバムに参加しあっていて交流があった間柄である。アルバムを捧げられたご本人も今回のアルバムに参加している。他のメンバーも豪華で、参加しているヴォーカリストはノラ・ジョーンズ、ティナ・ターナー、レナード・コーエンなど。それを支えるのが、ウェイン・ショーター、デイヴ・ホランド、ヴィニー・カリウタ、リオーネル・ルエケ(ベニン出身のギタリスト)というのだから興味を惹かないはずがない――のだが、あまり感心する内容ではなかったのが本当に残念だ。


 曲はもちろん素晴らしいし、アレンジや演奏の質も高い。しかし、この演奏には何度も聴き返したくなるような求心力みたいなものが欠けている。オリジナルのアルバムの方がずっと良い。非常に感覚的な話になってしまうけれども、ハービー・ハンコックの新譜が演奏されている場所は、今私が聴いている場所よりずっと遠くにあるような感じがする。コンサートホールに喩えるなら、私が座っている席から演奏者たちの姿は豆粒ほどの大きさでしか見えないようなそんな感じがする。当然、この音楽には「聴衆に寄り添うような親密さ」みたいなものを感じない――私は、ジャズって本来そういう「親密な音楽」なんじゃないかな、と思う(ビッグバンドが衰退してから、あまり大きな音量で演奏される音楽ではなくなったわけだし)。


 しかし、ハービー・ハンコックってこれまでにそういう親密な音楽をやる音楽家になったことがあっただろうか、とも思う。私が好きだったハービー・ハンコックのアルバムをいくつか思い返してみる――『処女航海』、『ヘッド・ハンターズ』、『ニューポートの追憶』……どれも素晴らしいけれど、『処女航海』は高級なジャズクラブで演奏されているような感じがするし、『ヘッド・ハンターズ』はもっと大きなコンサート・ホールで演奏されている感じがする、『ニューポートの追憶』は、ジャズがフェスティヴァルという祝祭空間のなかでロック的に消費されるようになった頃の記録である。やっぱり「親密さ」みたいなものに欠ける。暗くて、秘密めいていて、トイレがあまり綺麗じゃなさそうなジャズクラブで演奏された雰囲気はない。


 10代の頃から天才少年として注目を浴び、マイルス・デイヴィスのグループに迎えられ、最初からこれまで「最前線」のスタープレイヤーであり続けたハービー・ハンコックがそういう空気を持っていないのは、もしかしたら当然なのかもしれない――それにそういうのはハービー・ハンコックだけの問題ではないわけだし。もしかしたら、ジャズっていう音楽は60年代頃を最後に「親密であること」を辞めてしまったのかもしれないなぁ、とも思う。



エッセンシャル・エリントン
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 そこにはジャズのモダンな前進とそれに伴う聴衆との関係性の変化みたいなものを感じる。具体的な例をあげるなら、ジャズ界においてもっともモダンな男であったマイルス・デイヴィスなんかは完全に「聴かれる音楽」だろう。彼の音楽にも親密さはない(特に60年代以降)。どちらかといえば、むしろ聴衆を突き放すような、圧倒するような力強さが存在する。実際それは「トニー・ウィリアムズヤバスwww」とか「ジョン・マクラフリン、自重www」言って楽しまれてきているわけだし。まぁ、それはそれですごく楽しいんだけれども、なんか違うんだよなぁ……と思ってセロニアス・モンクなんかを聴くわけです(彼は『ミントンズ・プレイハウス』というクラブの専属ピアニストだった)。日本だと渋谷毅とか。





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