文化的焼畑農業の遠さについて

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やがて哀しき外国語 (講談社文庫)
村上春樹
講談社 (1997/02)
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 ひいひい言いながら辞書を引いてアドルノを読んでいると肩が凝ってきて「ああ、もうダメだ。しんどい。英語なんてやってられっか!」という気分になってくる。ので、気分転換にどうでも良いような日本語を読むことにしている――こういうときにぴったりくるのが村上春樹のエッセイである。含蓄も教訓もなく、ただ自分のなかを通過していくような文章なのだけれど、不慣れな英語を読んでいるときに味わっている足場の不安定さみたいなものがなくて、ものすごく安心する。逆に言えば、この足場の安定感とは何なのだろうか、日本語が読める、ということは一体どういうことなのだろうか、とか考えてしまうのだけれども。


 ところでさきほどこんな文章に出会った。



でも「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、考えようによってはなかなか悪くないものである。とくに日本みたいな「何でもあり」という仁義なき流動社会から来ると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。余計なことを考えずにとにかく細かい部分をコレクトに揃えておけば、それですんでしまうわけだから。



 ここで「なかなか悪くないもの」とされているのは、アメリカの大学に所属している人間の間では「コレクト(正しいもの)」とそうでないものがはっきりと分かれている、という生活である。そういうコレクトネスから外れていくとアメリカでは結構冷や飯を食わされるような思いをするそうだ。例えば、大学の先生などというインテリな職業に付く人はバドワイザーなんか飲んでちゃいけなくて、ギネスとかを飲まなきゃ変人扱いされるのだとか、音楽は知的なもの(クラシックとかジャズとか)を聴いているのが好ましいだとか。


 たしかにそういうのは日本だとないような気がする。「コレクトな人間の姿」みたいなモデルはあるにはあるけれど(浪人するのはせめて一浪までで、大学卒業したら就職してて、32歳ぐらいになったら結婚ぐらいしてる、みたいな)、別にそれを守らなくても文句は言われない。そういう寛容さは大学においても同じである。私の大学の先生も「子ども(未就学児)と一緒にブンブンサテライツを聴いて踊っている」というちょっと面白い方だったけれど、別にそれで文句など言われていなかった。


 しかし、「何でもあり」かというとそうではなく、それはこのエッセイの筆者も指摘しているように「何でもあり」なものが流動していく社会なのである。そこには、固定化されたコレクトなもの(インテリはバドワイザーのんじゃダメ的な)はない代わりに、時流にのって生きようとすればその時々に流行っているものに敏感に対応していかなくてはならない、というしんどさがある。どちらが良い悪いという訳じゃないけれど、忙しさで言えば断然後者の方が大きい。後者では「バドワイザーさえ飲まなきゃ良いからギネスを飲む」は通用しない。もしかしたら「ギネスなんか飲んでるヤツはもうダメだ。これからは同じ黒でもシメイだよ」と言われる日が来るかもしれないのだから、「時流にのる人」は不断のまなざしを時代に注いでおかなくてはならない。


 「もうギネスはダメだ。次はシメイだ」みたいな動きを、筆者は「文化的焼畑農業」と呼んでいる。今どこが新しい焼畑になっているのか、次に焼く畑はどこか、もしかしたら今いる畑はもう土地がダメになってるんじゃないか――「流行を追う/作る/乗る」っていうことには確かにそういう風に喩えられなくもない……と思うのだが、これは実体験に基づく感想ではなく、私はそういう流行に乗ってる人を傍目で見ながら「楽しいのかなぁ?いや、でも楽しそうだなぁ。良いなぁ」と感じていたタイプの人間なので、少なくともそういう風に見える、というだけの話である。


 思えば、全然流行に乗った、という記憶がない。気にしなかったわけではないんだけれども、「へー、今こんなのが騒がれてるんだぁ。今度買って/聴いて/食べてみるかぁ」みたいなことがホントにない。『STUDIO VOICE』をちょっと買って辞めた、っつーのも自分のそういう性格にあるんじゃないか、と思う。『STUDIO VOICE』的なものって今ホントに自分の遠くにあるような気がするもんなぁ(取り上げられているものに、自分が好きなものが載っている、という近さはあってもなんかすごく遠い感じがする)。



ちょっと気の早い話ではあると思うけれど、00年代カルチャーのまとめが始まってもいいと思う。というか今までに何があったのか気になる。でじこ様以降顕在化した「萌え」や「アキバ系」、それらが電車男によって爆発的に一般に認知されて…もう電車男が何年なのか把握できん。VIPまとめとかYouTubeとかニコニコ動画とかいつ頃だ。


そんなことは良いんだ。ゼロ年代洋ロック史が気掛かりなんだ。OasisもNirvanaもRadiohead登場しちゃいないじゃないか。The Strokesが頑張ると思ったらさほどでもない。Franz FerdinandやMaroon 5はNirvanaやRadioheadほど大きなセンセーションを巻き起こしたのか?最近洋ロックでそういうデカいのあった?ゼロ年代はそれで終わりに向かっているの?



 以上のようなことを漠然と考えていたら、mochilonくんのこのエントリを思い出して「こういうのは実はどうでも良いことなんじゃないかなぁ」とか思ったりした。流行とか、今自分がいる周りの風景を確認するのは、それはそれで大切なことかもしれないけれど、結局のところ「でも、そんなの関係ねぇ!俺はこれが好きなんだよ!!古かろうが新しかろうが俺はこれが好きなんだよ!!」という開き直りが、最も確かな足場になるんじゃないのかなぁ、と思う。





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