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アーネスト・ヘミングウェイ『海流のなかの島々』(上)




海流のなかの島々 上 (1) (新潮文庫 ヘ 2-8)
アーネスト・ヘミングウェイ 沼澤洽治
新潮社 (2000/00)
売り上げランキング: 19105



 ヘミングウェイの作品を読むのは久しぶりだ――以前に文庫の『武器よさらば』(大久保康雄訳)を読み終えた次の週ぐらいに新訳(高見浩訳)が文庫化されて、なんだか悔しいような損したような気分になったので「これは新訳に入れ替わる時期なのかもしれない」と買い控えていたのである。『海流のなかの島々』の沼澤洽治による邦訳が発表されたのは1977年、ちょうど30年前なので、新しいものとはとても言えない。しかし、本屋でパラパラとめくっていて「ああ、これは大丈夫だ(少なくとも私には)」と思ったので読み始めたら、これがすごかった。まだ、上巻しか読み終えていないのだが、上巻だけとっても「なぜ、このような作品をヘミングウェイは生前に発表しなかったのだろうか」と強く疑問に思うほど傑作。小説を読んでいて、そこに描かれている人物や物事に共感したり、憧れたりという読み方を特にしないのだけれども、ヘミングウェイの作品にだけは心底共感したり、憧れたりする。特に、この小説の主人公の画家、トム・ハドソンのビミニ島における生活には強く心が惹かれてしまう。


 若いころにはさんざん悪さをしてきたハドソンだが、2度の離婚を経験して落ち着いてからは、穏やかなカリブ海の小さな島で、自分の定めた規律に従いながらひたすら仕事に打ち込んでいる。その生活は、穏やかな修道生活、と言ってもよい――といってもハドソンの生活には身を捧げるべき神は存在しない。すべては自らの定める規律、それまでの人生によって培われてきた本能的な戒律によって生活をしている。自分の考えが及ばない、答えがでないものについて、ハドソンは悩まない(そのようなことを考えようとした瞬間に、自分から思考をシャットアウトする)。これを幸福といわないでなんと言えばいいのか、と私は思う。自分が今やれることだけをおこなう、周囲には気の置けない愉快な島の住人がいて、良い絵が描ける、酒もうまいし、気候も良い、島の外ではいろいろあるらしいけどそんなの関係ないな――というような超然とした生活は私の理想の生活のひとつである。ヘミングウェイのほかの作品では、かつて花形闘牛士として人気を博した落ち目の闘牛士や、アホな少年が闘牛士ごっこをしている間に死んじゃう、みたいな話にグッと来てしまうんだけれども。


 自律的な幸福を謳歌しているハドソンのもとに、前々妻、前妻の間に生まれた3人の息子たちが夏休みで遊びに来る。上巻はハドソンと3人の息子との交流が主に描かれているのだが、そこでの幸福具合は全開でひたすら心温まるものである。「(ひどく暴力的に要約して)父と子の交流モノ」の短編を多く発表しているヘミングウェイだが、それらが束になっても適わない父と息子たちとの幸福な時間が描かれている。特に、息子たちと船にのって釣りに出かけるシーンなどはホントにすごい。「小説の世界観に読者をを引き込む筆致」……などと言うけれど、ヘミングウェイほどそういうテクニックに長けていた人はいなかった、さすがノーベル賞をもらっているだけあって、立派な作家だなぁ、と彼の作品に触れるたびに思うのだが、その筆力がその釣りのシーンに現れているように思う。


 ただ、その多幸感が過剰であるあまり「ああ、きっと別な方向に物語は転がっていくのだろうな」という不吉な予感がする(そして、それは的中する)。これから小説がどうなるか、私自身とても楽しみなのだけれど、あまりに面白かったので、思わず上巻読了時点で感想を書いてみた次第。あと、上巻は島の住人の無垢さ(なんというか、近代化されていない人々の姿)が実に良くてそこだけでも面白い。





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