1909年のロマン・ポルノ(フロイト風)

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 アドルノの『新音楽の哲学』(新訳)を読んでいる。これがやっぱり面白くて*1、おかげで毎日楽しく過ごしている。本の内容はシェーンベルクに対してストラヴィンスキーを配置しながら、それを媒介として哲学・社会学・心理学を語る――といういつものアドルノ的な音楽評論。個人的に一番泣けるアドルノ本は遺稿をまとめた『ベートーヴェン―音楽の哲学』だけれども、生前に発表された音楽に関する作品ではこの本が一番よくまとまっていると思う。シェーンベルクとストラヴィンスキーに留まらず、それ以前の作曲家を線で繋ごうとするアドルノのモダーンな歴史観が垣間見える一冊(だから音楽史の本としても読める)。


 本に関してはこのくらいにしておいて(読み終えたらまた改めて何か書くだろう。誰も読んでなくても)、「せっかくシェーンベルクの本を読んでるのだから……」と久しぶりに彼の作品を聴きなおしている。今日聴いたのはサイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団を指揮してシェーンベルク作品を取り上げたもの。この録音に関しては《室内交響曲第1番》の「居心地の悪さ」が良いなぁ、メスカリンをキメたリヒャルト=シュトラウスみたいで、と思っていたのだが同時に収録されているモノドラマ《期待》とか《管弦楽のための変奏曲》もすごかった。今更気がついたけれども、このアルバム一枚でシェーンベルクが「12音技法」という20世紀を代表する音楽的発明に至るまでの過程が分かってしまうじゃないか……。

 特に無調時代の《期待》は「こんなキチガイ染みた内容だったのか!」と唖然としてしまうような作品である。この当時、シェーンベルクはカンディンスキーなんかとツルみながら「表現主義」という芸術運動に参加してワイワイやっていたらしいのだが、美術のことはよく知らないので「表現主義」と言って思い出すのは『カリガリ博士』と『ノスフェラトゥ』ぐらい。しかし、その連想ゲームはあながち的外れとも言えず、ソプラノの語り部によって進行するストーリーは前述のふたつの映画と共鳴するような内容だ。「あらゆる闇の恐怖に身をさらしながら夜な夜な愛人を探し回り、最後に彼が殺されているのを見つける一人の女性」が主人公なのだが、彼女が彷徨う森の中で観た幻覚や性的な妄想はフロイト*2的にも読解できそう。タイトルの付けられた《期待》は、そういった恐怖のなかで愛人と出会い、そして情事にふけりたい……という歪んだ「期待」なのである。


 音楽の方に耳を傾けると、実にエロティックかつ不気味で、そこまで「難解」というわけではない。音楽は妖しげなテキストと連動して動くので、物語的に動く。しかし、映画音楽と違ってそれが情景へと寄り添っていくものでも、ましてや不協和音が効果音的に用いられているわけではない。時に音楽の方がテキストを動かす、という関係にある。こういう音楽とテキストの絡み合いに触れると「無調も結局ロマン主義なのだなぁ」と思ってしまう。派手な舞台がないだけで、ワーグナーの楽劇とやっていることは同じような感じもする。「映像のないロマン・ポルノ」――そんな風に言っても過言ではない。この作品から感じるマッドな歪みと不気味さは(私の少ない映画体験のなかで)『荒野のダッチワイフ』へと繋がっていく。もっとも《期待》には、あんなにカッコ良いハードボイルド感はなく(「お前の心臓が透けて見えるぜ」!)、実にお上品なエロへとまとまってしまうのだが。元々食い合わせが悪い分野なのかもしれないが、クラシックの世界に「ハードボイルド」が存在しないのは悲しいことだ。




*1:アマゾンのレビューには訳が良くないといちゃもんをつけているヤツがいるが「ここまで綺麗に整えちゃって良いのか(原文を見てないけど)」と心配になるほど読みやすい訳。大体「原書と見比べると云々……」とか言ってる人間はそっちを読めばよろしいではありませんか?


*2:今思ったけど、なんでFreudは「フロイ」なのに、Jungは「ユン」なんだ?





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