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ティホン・フレンニコフ/ヴァイオリン協奏曲第2番





 ブリリアント・クラシックスからリリースされたレオニード・コーガンの10枚組ボックスに先日亡くなったティホン・フレンニコフの作品が収録されていたことを思い出して聴きなおしてみた。曲はヴァイオリン協奏曲第2番。


 3楽章構成とオーソドックスな作りのこの作品は、総演奏時間15分強と非常に短く仕上げられている。このあたりのライトな作りが「ソヴィエトの芸術家は労働者のために作品を作らないとダメなのであーる!」という社会主義リアリズムの象徴なのかもしれない(長いと飽きちゃうしね……という配慮!)。調もハ長調。シャープもフラットもついていない、まっさらなものが選ばれている。


 作品の内容はどうかと言えば、冒頭から独奏ヴァイオリンが速いパッセージを弾きまくり、その後もずっと弾きまくり、結局1楽章は超絶技巧のフレーズをヴァイオリンが弾き散らかして終わってしまう。アレグロ・コン・フォーコ。「火のような情熱をもったアレグロで」と支持されるその楽章は、ケツに火がついたような忙しさである。第2楽章は一転して、哀愁を帯びたモデラート。お涙頂戴。で、本当にバカみたいなんだけど、3楽章は再び「アレグロ・モデラート・コン・フォーコ」。独奏ヴァイオリンが再び弓の毛が擦り切れるほどの忙しさのなかに放り込まれてしまう。はっきり言って、聴き所はヴァイオリン独奏者のテクニックのみ!

 他の作品を聴いていないからなんとも言えないけれど、こんな曲芸みたいな曲ばかり書いていたら「そりゃあ、知名度が低いまま死んじゃうよなぁ、フレンニコフ」と思ってしまう(逆に気になってきたりもするけど)。ソ連時代に○○連盟の偉い人とかになると「半分政治家」みたいな扱いを受けたそうだから、そっちの仕事が優秀だったのかもしれない*1




*1:Wikipediaには「いかさまの選挙によって、ソ連崩壊までその書記長職に居座った」とある





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