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グレン・グールド《じゃあ、フーガが書きたいの?》




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 死後25年経った今も絶大な人気を誇るピアニスト、グレン・グールドが「将来的にはピアノも廃業して作曲家になりたい」と語っていたことはファンの間では有名なことかもしれない。しかし、結局彼が作曲家として名を馳せることはなく、現在実際に我々が聴くことが出来るのはファゴット・ソナタと、弦楽四重奏曲、それからこの《じゃあ、フーガが書きたいの?》の3曲のみだ(他にピアノ曲があるらしいが、録音が残されているかどうかは知らない)。


 《じゃあ、フーガが書きたいの?》は1963年にテレビの教育番組用にグールドが書き下ろしたものだが、「教育用」(グールドはこの作品を5分14秒のコマーシャルだ、と言った)と言えどもよく書けたものだと思う。曲中では弦楽四重奏によって、バッハやベートーヴェン、ワーグナーの引用が、原曲とは異なった表情で差し込まれる。その上で4人の歌手は歌う。



言われたことは気にしない/言われたことは守らない/言われたことはいっさい忘れて/本の理論もいっさい忘れて/だってフーガを書くのなら/勢い込んで書くしかない/規則を忘れて書くしかない/やってごらん、そう、フーガを書いてごらん



 そういいながらも楽曲は厳格なフーガに基づいて書かれている。「忘れるしかない」はずの規則がここではしっかり守られている。こういった矛盾こそがグールドらしい点ではある。グールドほどピアニストらしくないピアニストはいなかったわけだし。



Glenn Gould Edition: String Quartet, Op. 1

Glenn Gould Edition: String Quartet, Op. 1







 《じゃあ、フーガが…》はこちらのCDに収録されている。このアルバムには彼の弦楽四重奏曲や、彼の本来のレパートリーとは言えないショスタコーヴィチやプーランクの作品が入っている。珍しい音源が集まっている……といえば貴重な一枚なんだけど、特別良い演奏じゃないのでオススメしません。弦楽四重奏曲も「後期ベートーヴェンのスケッチを、ヒンデミットとリヒャルト・シュトラウスが喧嘩しながらいい加減にロマン派っぽく書き直した」みたいな感じ。35分という長大さだけが本格的にロマン派である。


 





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