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ニュー・ジャズとイヤー・クリーニング




Onjq Live in Lisbon

Onjq Live in Lisbon







 今年は夏フェスに行けなかったので、代わりに好きなミュージシャンのライヴにでも行こう……と思って大友良英のライヴに行ってきた(@新宿ピットイン)。出演者はアクセル・ドゥナー/Sachiko M/大蔵雅彦のトリオと、大友良英ニュー・ジャズ・クインテット。この日の夜はオーケストラのほうもあったのだけれど「きっと混むんだろうなぁ」と思ったので昼公演にしたのだが、予想通りフロアに椅子が置けるぐらいの良い感じの人数だった。椅子が並べてあるピットインに行ったのははじめてな気がする。


 ONJQは「FLUTTER」、「EUREKA」などの定番ナンバーと最後に新曲(?)っぽいのを演奏。芳垣安洋のドラムが毎度のことながら「叩いている間は常にソロ」みたいでカッコ良く、津上研太のサックスも相変わらず男前で素晴らしい。オーケストラより小編成のクインテットは、音楽のダイナミックな動きがすごく軽快でインパクトがあるなぁ、と思った。アクセル・ドゥナーを加えた今日のクインテットは、これまでで一番オーセンティックかつオールド・スクールな「ジャズ」の形に接近していたように思う(ハード・バップっぽかった)。あとセッティング中に大友良英が「MOOD INDIGO」を練習していて、期待していたのだが演奏せず。


 と、まぁ、なんかすごく安定したライヴを観たような気持ちでライヴ会場を後にできたのはONJQの前に演奏したトリオがすごすぎたせいかもしれない。この日彼らは微弱音による50分のセットを演奏。これがヤバ過ぎた。空調のスイッチも切られ、異様な静寂が訪れた室内ではほとんど強制的に「聴覚の集中」が行われてしまう。楽器の管を通したフラッタータンギングの音(リードや唇は振動していない)や単に空気を通した音、それからSachiko Mのサイン波をそういう「特殊な環境」で聴いていると神秘体験染みた境地に持ってかれてしまった(客席で全く体が動かせなかったことに、後から気がついた)。そして強固で、批評の言葉を寄せ付けない弱音の世界にガツンと打たれてしまった。演奏時間が過ぎていくとともに室内の温度は上昇し、そのなかでイヤー・クリーニングをされてしまったような、そんな感じである。絶対零度のハードコア。





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