スキップしてメイン コンテンツに移動

時間旅行楽団




D



時間旅行楽団は有志によって大学の壁を越え結成され、2005年に山口情報芸術センター(YCAM)でデビューを果たした若手楽団です。音楽表現が多様化している現代においては、絶対的な”アーティスト” ”音楽”という存在・概念が揺らいでいます。私たちは、そのような現代における新たな音楽の可能性を模索しています。

 私たちは、定められた規則に従い演奏者がその場で判断を下し、自らの身体を使って音を生成していく音楽を提案してきました。これらは、従来の”作曲”のように1人の作曲者が譜面や楽器と向き合い音を構成していくのではなく、複数人により様々な作曲のアイデアを出し合い、コラボレーションしていくことで生み出されています。私たちの作品には、数列に単純に音を当てはめていくだけではなく、音を生み出すための行為としての、身体の動きも同時に付随しているという特徴があります。それは、ダンス等のように身体を動かす事自体が目的ではなく、あくまでも音楽のための時間的な流れを生み出す手段の一つであり、機械的な洗練されたシンプルな動きとして存在します。さらに、その演奏には特殊な音楽テクニックを一切必要としません。実際、メンバーには特別な音楽教育を受けていない者も含まれています。しかし、誰でも実践できる単純で機械的な動きだからこそ、そこには人間らしさが露呈します。ネットワークテクノロジーの爆発的な一般への普及などにより、あらゆるものが画一化し、テクノロジーに操られているかのような社会が生み出されつつあります。そのなかで、私たちの試みは人間が「個」を失っていくという現在の状況に対しての問いかけになるとも考えています*1



 このグループには、以前からこのブログを(というか私のネット上にアップしている文章を)読んでくださっている方が参加している。映像は彼らによるパフォーマンス「回転少女」より。音楽のシステムの揺らぎから新しいものに若い人たちが取り組んでいるということは注目に値するように思う。こういうものは率先して取り上げていきたい。


 「回転少女」を観ていて脳裏に浮かんだものに、佐藤雅彦と、足立智美の作品がある。ひとつめのものは、ここで試みられているアルゴリズム性に関して。「アルゴリズム体操」を観たときの印象を誘発させられた。しかし、「回転少女」内でおこなわれているアルゴリズムは佐藤雅彦のものよりも複雑である。後者が、順次と反復しか使用していないのに対して、前者は順次・選択・反復という三つの要素を持っている。時間旅行楽団は構造化プログラミングの基本構造を押さえているのである。


 ふたつめのものは、演奏者が発する肉声がベルカントではないという点に関して。これは足立智美ロイヤル合唱団の作品を思い起こさせる。両者の間にある相違点をあげるなら、まずどちらも「ハモっていない」という点に共通項を見出せるし、足立智美がするような言葉の意味を発声することによって解体/構築する試みは時間旅行団においてはおこなわれていない。その代わり、意味を伴わない音声は、不気味なほど肉感的である(肉声!という感じがする)。


 こじつけも甚だしいのだが、以上のような感想を持った。しかし、このパフォーマンスを観察していると、そこでどのようなコードが書かれているのか想像することが出来る点が面白い。どのような過程で作品が生まれているか、それは想像に過ぎないのだが、ここで演奏者に与えられている動作の指示は記譜することが可能なもののように思える――そうすると非常に非西洋的で斬新なように見える試みが、西洋的な作曲概念上で行われているようにも考えられる。


 しかし、このパフォーマンスのアルゴリズムは組み替え可能であることも忘れてはならない重要な点であろう。映像を見ていると、演奏者が肩を叩かれるときになって回転を始める規則を見出せる。もちろん、他にもさまざまな指示がプログラムされているのだが、その指示の連なりによってパフォーマンスは進行し、この映像における「回転少女」は出来上がっている。


 だが、おそらくこの「回転少女」はひとつの形態に過ぎないのではないだろうか――と私は想像してしまう。「回転少女」プログラムは、初めに回転しはじめる人の人数を変えるだけで、全く別の「回転少女」になり得る(しかし、プログラムそのものに変更は加えられていない)。この可能性をもたらすアイデアが痺れるほど素晴らしい――プログラムは作曲者たちによって厳密に規定されている。しかし、その結果はあるときには作曲者たちにすら予測のつかないものとなる。これは「管理された偶然性」という言葉が最も相応しいものであるように思う。


 時間旅行楽団を前にすれば、ケージは天国でその無責任さを反省し、ブーレーズは自分の中途半端さを悔いることになるのではないだろうか。






コメント

  1. ご紹介ありがとうございます。
    パフォーマーの初期値と演算方法によってさまざまな値を吐き出すわけですが
    実演に際して比較的簡単な演算が用いられることになり、単純な数字の順列を吐き出すのみになったり
    離散的な構造がはっきりし過ぎてしまったり、まだまだ試行錯誤できる要素があると思います。

    時間旅行楽団を含む一連の方法芸術の鑑賞に、mkさんもおっしゃったような「規則を見出す」という
    ある種の好奇心が芸術の価値になっているのか(私はそう思う)
    そうでないのかを方法芸術家が明言していない気がします。
    なぜ明言しないか。
    方法芸術の芸術方法が観客に問われるからだと思いますね。

    返信削除
  2. コメントありがとうございます。複雑な演算をおこなうには、それなりの訓練が必要となりそうですね。外からコードを伺うとはまったく正反対に、コードを完全にオープンなものとして、誰もがパフォーマンスできるような環境を作るのも面白いのかもしれません。「作品」ではなく「教育的なメソッド」みたいに(野村誠のようですけれど)。とにかくこれは面白かったです。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か