- Kuni Sakamoto "The German Hercules’s Heir: Pierre Gassendi’s Reception of Keplerian Ideas", Journal of the History of Ideas 70(1) (2009) 69-91
Kuni Sakamotoこと坂本邦暢さんの2009年の論文を読みました。こちらはルネ・デカルトの論敵として知られ(一般的にはまったく知られておらず)、著作の邦訳も現時点でゼロであるピエール・ガッサンディを扱った作品です。コペルニクスやケプラーといった人物たちによる天文学上の業績は、ニュートンに受け継がれ、それは『プリンキピア』によってひとつのマイルストーンが打ち立てられた……という教科書的なストーリーは、現代の科学史業界でも支配的なようです。著者がこの論文で取り組んだ問題のひとつには、その支配的なストーリーのなかで、ニュートン以前にケプラーから影響を受けていた天文学者たちがあまりにも軽視されていることがある。そうした状況にガッサンディで一石を投じてやろうとする野心的な論文だと言えましょう。主題はケプラーをガッサンディはどのように受容したのか。ここでは天文学上の影響だけでなく、神学上の影響も顧みられます。
ケプラーが自転運動と公転運動をひきおこす要因として「繊維」の存在を導いたのは、いまから考えるととてもビザールなものに感じられます。天体の霊魂は、神から与えられた最初の力を、天体のなかに貼りめぐらされた繊維(筋肉の繊維のようなものを考えているらしい)によってある決まった方向に回転する力として持続させている。ケプラーは自転をこのように説明し、また公転については、太陽を中心にしてはりめぐされた磁気的な繊維によって、楕円の軌道をもった運動をおこなうとされる。ガッサンディは自転の説明をおこなう際、この天体の内部に存在する繊維の概念を借用しています。ただし、ガッサンディにとってのその繊維は、ケプラーのように天体の霊魂のパワーを伝達するものではなく、原子の集合体であり、自転のメカニズムはひとつの原子がとなりあう原子にぶつかり、さらにそのとなりの原子に……と衝突の連続によって回転運動をするものと説明される。この違いを筆者は、ケプラーが天体が非物質的な霊魂をもつと考え、ガッサンディは天体の霊魂は物質的な原子の集合であると考えたところにあると見ています。
一方で、ガッサンディは公にケプラーの公転メカニズムの説を支持していません。というよりもこれは、支持できなかった、という言い方のほうが正しいでしょう。1633年にガリレオの裁判がおこるなど、カトリックに所属していたガッサンディにとって、ケプラーの地動説にもとづく説明を支持することはたいへん危険なことであったと考えられます。ガッサンディは私的な書簡において地動説を全面支持しており、複雑な態度表明をせざるをえなかったことがうかがえるでしょう。
また、ケプラーとガッサンディの神学的なつながりを明らかにするため、筆者はケプラーの『Strena seu de nive sexangula』という小著をとりあげています。本書のタイトルを邦訳すならば『徴(しるし)、あるいは六角形の雪について』とでも訳せるでしょうか、このなかでケプラーは雪の結晶がどうして秩序だった形で形成されるのかをさぐっている。そこにはやはり創造をつかさどる神によって地上の霊魂に与えられた動物的能力と形成的能力が作用していると考えられています。神は偉大なる幾何学者の性格をもち、それゆえ雪の結晶も一定の形をたもって形成される。
ガッサンディもまた『哲学集成 Syntagma philosophicum』のなかで雪の結晶について言及しています。雪の結晶形成には霊魂的なものが作用している、と彼はケプラーの名前を出さずにそのアイデアを借用している。しかし、ガッサンディにおいて霊魂とは単なるアナロジーでしかないと筆者は言います。ガッサンディは霊魂とはちがった別な原理によって説明しようとしている。そこで霊魂の代わりにもちいられているのが「種子的な原理」でした。神によって動物や植物の種が作られたように、雪においてもその種によって一定の形の結晶が作られる。
それでは、形成的能力をもった霊魂ではなく種子的な原理によって雪の結晶を説明するガッサンディは、ケプラーの説を受け入れていないのか? 上述したとおり、形成的な能力も種子的な原理も同じく、幾何学者としての神によって与えられたものである点は同じです。そして、このアイデアもガッサンディがケプラーから積極的に導入したものである、と筆者は見ている。論文では文献からその影響関係を検証しているのですが、ここでガッサンディが自然哲学と神学の目的を同じものとした記述が引かれていて興味深いです。ガッサンディにとって、自然とは神の知識を得るための「本」であり、聖書とならぶもうひとつのテキストだと考えられます。自然哲学は神へと直接的に言及しない。しかし、自然の秩序を探求することは、幾何学者としての神の意志に近づくことです。それゆえ、ガッサンディは自然哲学者を「自然神学者」と呼びなおしさえする。これは初期近代の科学者の探究心がなにによって駆動されていたのかを明らかにしてくる記述だと思いました。
「ドイツのヘラクレスの継承者 The German Hercules’s Heir」という論文タイトルのココロについては、実際に論文をお読みください。なお、坂本さんのガッサンディ関連の仕事では、ガッサンディがエピクロス主義をキリスト教のなかで受容できるよう再解釈をおこなった事実を追った論文も発表予定だそうです(日本語)。すでに草稿に目を通させているんですが、こちらは日本語で読める貴重なガッサンディ研究のひとつになるでしょう。この論文とあわせて読みたい。
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