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Adam Takahashi 『Nature, Formative Power and Intellect in the Natural Philosophy of Albert the Great』


クニ坂本さんが絶賛した形跡があるアダム高橋さんの2008年の論文「アルベルトゥス・マグヌスの自然哲学における自然、形成力、知性」を読みました。アダムさんとは交流が長いですが、お仕事に触れるのはこれが初めてですね……。

かつてのアルベルトゥス研究においては、彼が残した形而上学分野と自然哲学分野ではっきりとグループが分かれていて、相互に断絶したような状態だったようです。一方、現在では両方の分野を扱わないとアルベルトゥスの世界観は理解できないよね、という感じになっている。筆者もこの立場をとりつつ、アルベルトゥスが自然現象の説明に用いる「知性」、動物の発生の説明に用いる「形成力」という概念に迫っていきます。第一に参照されるのがアルベルトゥスの『鉱物について』という著作です。これは中世の鉱物論だけでなく後々の物質理論にも影響をあたえた重要な著作だそうですが、やはり形而上学に関心がある研究者には無視されていました。まずはこの欠落を筆者は埋めようとする。

この著作の第一巻では、アルベルトゥスは石の形成を説明します。いわく石の質料因は、粘性で油性の湿気をともなった土の元素のまざりものである。粘性をもってなければ、石は固まっていられないし、また、宝石やガラスなどの透明な石は、不透明な石よりもかすかにしか質料をもっていない。この生成においては、高次の元素の変質が必要である、と彼は説く。これをより詳細に説明するため、アルベルトゥスは錬金術を例に出しています。ここでは自然の力による石の形成と、人間の手による錬金術が対比されるのですが、自然は錬金術とちがってなんの苦労もなく石を作り出してしまう理由が問われている。どうして人間は数々の失敗をするのに、どうして自然に石はできあがってしまうのか。それは自然が天に由来する知性的な力を用いれるからだ、とアルベルトゥスは説明する。これは錬金術者がもちいる技術よりもずっとパワフルなものと考えられます。

また、石の形成においては形成力概念も登場している。ここでも自然と人間の対比で説明がおこなわれます。アルベルトゥスにおいて、形成力とは「人工物のなかにいる職人」のような役割を持ちます。職人がさまざまな道具をつかってなにかを作るように、形成力は熱をもった湿気と湿った湿気を用いて石の形成に働きかける。また、この説明のなかでは石の形成と動物の発生もまた対比されている。形成力にとっては前述のふたつの湿気のうち「熱をもった湿気」のほうが重要で、それは動物の発生においてもその精子をコントロールするのに熱が重要であるのと同じであると考えられたからのようです。錬金術が自然に劣るのも、この熱が十分でないからだ、とアルベルトゥスは説明する。

アルベルトゥスの形成力概念は、3つの力によって構成されています。またもや職人のアナロジーが用いられ、筆者は1) 「天球の運動者」-「形相とつながる力」、2) 「動いている天球自身」-「職人の手」、3) 「元素」-「職人の道具」と、形成力と職人のアナロジーのひもづきを整理している。アリストテレスが職人のあたまのなかにあるイメージを形相に喩えた例がここではそのまま当てはまります。アルベルトゥスにとって、石として形成される形相は、天体を通して土の元素を与えられるまえに存在している。ここまで見ていくことによって、筆者はアルベルトゥスの石の形成原理において、知性が第一の形成原理として働いていることを導いている。

次に筆者は、アルベルトゥスの動物発生論を見ていきます。やはり動物の発生原理にも形成力が説明概念として用いられているのですが、ここでは形成力と自然現象の人工的な性格について詳細な議論がおこなわれているそうです。

胚の発生においてアルベルトゥスは神的で不滅な実体と、それとは逆にいつか壊れてしまう実体とを区別しています。月下界のあらゆるものは生成と消滅を通して変化するけれど、形相と種は不変である。アリストテレスの議論に則してアルベルトゥスはそのように考えます。このとき、彼はあらゆるものは、その状態を発展させようとする性格をもつ、と考える。それゆえに動くものは、動かないよりも優れているし、存在は不在よりも、生は死よりも望ましい。いつかは消滅するものであっても、月下界の事物は特定の形相と、神的な永遠性を与えられ、善きものへと志向していく。以上から、アルベルトゥスは動物の発生において、質料的な原理よりも、形相をそなえた作用的原理や形成的原理を重要視します。不滅のもののほうがとにかく大事、ということでしょうか。

またこのなかでアルベルトゥスは精液における作用的原理と形成的原理を同一視し、精液のなかに神的な形成的原理が含まれるというアリストテレスの説を採用します。ここでは身体をつくるのは霊魂によって駆動するのではなく、形成的原理によってなされます。魂の発生に先だって、形成的原理が身体を作る。さらにアルベルトゥスはアヴィセンナの説を使って形成力を説明します。この説明では、精液のなかでの形成力は2つの段階にわけられている。まず、形成力は、精液のなかでバラバラになっている動物の身体のパーツをくっつける。そこからさらに、霊魂の力をもった精気を導く役割を果たす。動物の発生における形成力の役割は、直接に身体のもとになる四元素を操作するのではなく、精液のなかに含まれた熱(これが霊魂のパワーである精気)をコントロールするだけで、事物に直接作用するのは、この熱である、とアルベルトゥスは言う。また、彼は精液について、それが精気を含むゆえに粘度が高く、濃い液体であると言います。薄い精液は、簡単に精気が抜けてしまうので発生ができなくなってしまう。アルベルトゥスの以上の説明から、筆者は「精気が種子的な力の乗り物であると考えられる」と分析している。

アルベルトゥスの動物発生論では、やはり職人のアナロジーが用いられ、ここでの形成力概念も鉱物と同様3つの力の複合によって構成されると説明づけられている。そしてその第一原理には知性がが存在している。つまりは、アルベルトゥスにおいては、鉱物の形成も動物の発生も同じ知性の力によるものだ、という理論的フレームワークを見いだせるでしょう。

筆者は、ここから古代から初期近代まで医学において重要な役割を演じていた「精気」の概念を扱っていきます。アルベルトゥスの著作『精気と呼吸について』には中世後期にみられる典型的な精気についての記述がある。またこの著作でのアルベルトゥスはアリストテレスの精気理論だけでなく、アヴィセンナを含むアラビアやユダヤの学者の説にもよっており、そこにはガレノスの流れをくむギリシャ-アラビア医学の影響もみられるようです。一方で、これまでの研究においてアルベルトゥスの精気に関する記述と、彼の発生の考えを接続できていない、と筆者は指摘しています。しかし、動物の発生の箇所でも触れられているとおり、形成力の説明のなかには精気が登場しますし、精気には形成力がとどまる場所の役割も与えられている。『精気と呼吸について』による精気を見ていくことで、先行研究が取りこぼしていた精気と発生の関係性を確認することが、ここでの筆者の意図となっています。

この著作の冒頭でアルベルトゥスは、霊魂を生命の原理としている。また彼はここでアリストテレスが著述した植物的生命や感覚、推論能力のような生理的な操作に先だっていることから、生命をほかと明確に区別する。そして、その生命の乗り物であるのが、精気だとされます。その精気は「すべての生命活動のために霊魂を「本質的に(organically)」受容する、空気の形相をもつ元素によってできた身体」と定義されている。この「本質的に」という言葉を、しばしばアルベルトゥスは「instrumentally(道具的に)」という言葉と置換するために使用しているそうですが、ここから彼がアリストテレスの精気の道具性を強く継承していることが見出せます。

そして、またもや職人のアナロジーを使って、精気の道具性を説明しようとする。この精気はどのように動物の身体のさまざまな部分を形成するのか(精気という単一の道具で、いろんな身体器官を作れるのか)という問いがここで挟まれる。この問題を解決するのが神的な形成力でした。これが各種の器官の精気をコントロールすることで、身体がうまく形成される。大工の意志によってかなづちが使用されるように、形成力が精気を用いるのです。

さて、だいぶ長くなりましたが、本論文の中盤までを以上のようにまとめてみました(後半では形成力が第一知性からどのようにやってくるのかを説明するしている部分についての分析がおこなわれています)。これはアルベルトゥスがアリストテレスの物質理論/生命理論をどのように受容し、発展させようとしたのかがサラリと見てとれるありがたい論文だと言えましょう。初期近代までこうした考え方は受け継がれていくわけで、読みながらヒロ・ヒライ 『霊魂はどこから来るのか? 西欧ルネサンス期における医学論争』坂本邦暢 『アリストテレスを救え 16世紀のスコラ学とスカリゲルの改革』の内容も思い出しました。アリストテレスによる四原因説もどういうものなのかなかなか理解できない部分であると思うのですが、アルベルトゥスがしつこく繰り返す職人のアナロジーによって、だんだんと読んでいてしっくりくるような気もしてくる。

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