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最近聴いてて良かった中南米の音楽

夜明けのサンバ(BOM1905)
パウリーニョ・ダ・ヴィオーラ&エルトン・メディロス
ボンバ・レコード (2010-03-20)
売り上げランキング: 375,434

あいかわらず普段はブラジルを中心としたラテン音楽ばかり聴いております今日この頃ですが、最近聴いてて良かったCDなどをご紹介。まず一枚目はルーツ・サンバの代表的名盤と称されるパウリーニョ・ダ・ヴィオラとエルトン・メディロスによる『Samba Na Madrugada(夜明けのサンバ)』を。サンバと言われても、カーニヴァルのサンバしか思い浮かばない御仁も多いことでしょう。一重にサンバと言いましてもいろいろありまして、私も実際よくわからず、わけいってもわけいっても青い山状態であるブラジル音楽の奥深さに毎度畏れおののくばかりではございますが、こちらはしっとりした、カーニヴァルのサンバとはおよそイメージを真逆とする音楽。1966年の作品、これはすでにボサノヴァの流行やトロピカリズモが興っていたころだと思いますが、バンドリンなどのショーロで使用される楽器の音色も聴こえ、人種だけでなくさまざまな音楽のるつぼであるブラジル音楽の深さをまた改めて感じさせてくれる。やはり聴けば聴くほど勉強が必要だ、とも感じます。

Indestructible: Roots of Buena
Ruben Gonzalez
Egrem (2006-07-12)
売り上げランキング: 37,143

さて、お次はキューバのピアニスト、ルーベン・ゴンザレスの『Indestructible: Roots of Buena』を。こちらはライ・クーダーのBuena Vista Social Clubによって発見された大ピアニストが1975年に録音した音源を、1997年に発掘・再発したアルバム。キューバの音楽はライ・クーダーから入る……という正しいのだか間違っているのだかわからない、しかしベタな入り方をしている私ですが、これは素晴らしい……。ビル・エヴァンスのようなロマンティックで流麗なピアニズムに、ラテン・パーカッションを添えて、というまず間違いない音楽で「快適音楽」的な性格が大変に高い内容。しかし、単なるラウンジ・ミュージックにとどまらない深い音楽的滋味がビシビシと伝わってくるのでございます。

メキシコ/マリアッチ~マリアッチ・アガベ
マリアッチ・アガベ
キングレコード (2008-07-09)
売り上げランキング: 111,454

最後にメキシコのMariachi Agaveのアルバムを。こちらはメキシコの伝統音楽を演奏するマリアッチの名曲集です。ソンブレロをかぶって、マラカスもってヒゲ生やして、テキーラ飲んでる陽気な男たちのイメージがそのまま投射されそうな感じですが、これを聴いて「『ラ・クカラーチャ』ってメキシコの曲だったんだ!」と軽い驚きがあったりしました(本場の『ラ・クカラーチャ』は合いの手の『イェイ、イェイ』がスゴい)。ギター、アコーディオン、ヴァイオリン、トランペットなどの演奏を伴って、めちゃくちゃ良い声の男性が朗々とパワフルに歌い上げます。この絶倫感は吹きだしてしまうほど濃ゆい。このアルバムのなかには明らかにブラジル音楽の影響を受けて作られたであろう曲もあり、ここだけまるでデオダードがプロデュースしたみたいなんですが、そうしたところから大陸のなかでのつながりを見いだせるかもしれません。あと、この編成の音楽を聴いていて、先日たまたま観ていたビクトル・エリセの『エル・スール』のなかに登場する楽団を思い出したりもし、これには新大陸と大陸とのつながりを感じてしまう。これはスペインとメキシコだけでなく、ブラジルとポルトガルの関係からも見出せそうなものです。音楽から歴史や文化をたどれるのは、ワールド・ミュージックを聴く愉しみのひとつでもありますね。今後とも探究をつづけていきたいです。

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テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

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