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クリストフ・ポンセ 『ボッティチェリ《プリマヴェラ》の謎: ルネサンスの芸術と知のコスモス、そしてタロット』

ボッティチェリ《プリマヴェラ》の謎: ルネサンスの芸術と知のコスモス、そしてタロット posted with amazlet at 16.02.11 クリストフ・ポンセ 勁草書房 売り上げランキング: 10,304 Amazon.co.jpで詳細を見る 翻訳のお手伝いをした本。全ページフルカラーで装丁も大変に美しいのにお値段が税抜2600円と驚きの価格。担当された編集者の方にお話を伺ったら最近は、安い紙の素材がでてきたり、DTPで編集作業が楽になったおかげでこういう値段で売れるようになったそうな。ありがたいことでございます(手に取った瞬間、ありな書房の本かと見紛いましたが、ありなだったら6000円ぐらいしそうだよ)。現在、上野で開催中の ボッティチェリ展 でも買えるそうです。 著者のクリストフ・ポンセは、Webサイトの制作やテレビ番組のプロデューサーなどをやりながら、マルシリオ・フィチーノの研究をしている研究者。日曜研究者ともいうべき人なのだが、そういう人がこうした研究書を発表できるのがスゴいと思うし、逆に、在野の人だったからこそできた仕事なのかも、とも思う。ボッティチェリの《プリマヴェラ》という超絶的に有名な作品の解釈については、これまでに数多の解釈や研究がおこなわれている。そうした先行の研究をおさえながら、一枚のタロットカードを鍵として新たな解釈を提示している。 とにかくこの本、すごい作りが良くて。図版を豪華に使い倒しているおかげで、著者が言いたいことがめちゃくちゃにわかりやすくなっているので、図像解釈学の入門としても良いんでは、と思う。。

E.H. Gombrich 「Apollonio di Giovanni: A Florentine cassone workshop seen through the eyes of a humanist poet」

Gombrich On the Renaissance - Volume 1: Norm and Form posted with amazlet at 15.02.13 E.H. Gombrich Phaidon Press 売り上げランキング: 110,045 Amazon.co.jpで詳細を見る 引き続き 、ゴンブリッチのエッセイ・論文集を。2本目の「Apollonio di Giovanni: A Florentine cassone workshop seen through the eyes of a humanist poet(邦題は『アポロニオ・ディ・ジョヴァンニ: ユマニスト詩人の目を通して見たフィレンツェのカッソーネ工房』)」。カッソーネとは、14-16世紀のイタリアの金持ちが結婚するときに嫁入り道具的な形で作らせた長方形の箱。これには色々と絵が描いてあったり、装飾がほどこされてあったりする。15世紀前半のフィレンツェで活躍した、アポロニオ・ディ・ジョヴァンニという人はカッソーネに絵を描く有名な画家だったそう。で、その作品をウゴリーノ・ヴェリーノというイタリアの詩人がベタ誉めするような詩を書いている。それってどういうことなの? っていうお話。 アポロニオ・ディ・ジョヴァンニの工房で製作されたカッソーネ ネット上に良い感じの画像が落ちてないんで、分かりにくいんですが、この絵がまたすごいんですわ。嫁入り道具的なものなのに『アエネーイス』だとかの戦闘シーンなんかを題材にしていて、やたらとスペクタクル感あふれている。もちろん、その題材には道徳的な意味が隠されていて云々。アポロニオ・ディ・ジョヴァンニの絵画技法は、ゴシック的なリアリズムを継承するもので云々とか書かれていましたが、壮大に読み飛ばしてしまったため、内容全然理解してません。

E.H. Gombrich 「The Renaissance Conception of Artistic Progress and Its Consequences」

Gombrich On the Renaissance - Volume 1: Norm and Form posted with amazlet at 15.02.05 E.H. Gombrich Phaidon Press 売り上げランキング: 73,306 Amazon.co.jpで詳細を見る 昨年読んだスヴェトラーナ・アルパースの本 で言及されていたゴンブリッチの本に手をつける。『Norm & Form』は20世紀を代表する美術史家のルネサンス芸術論集を集めたエッセイ・論文集。『Gombrich On the Renaissance』という全4巻のシリーズものの第1冊だ。 規範と形式―ルネサンス美術研究 posted with amazlet at 15.02.05 エルンスト・H. ゴンブリッチ 中央公論美術出版 売り上げランキング: 2,270,590 Amazon.co.jpで詳細を見る すでに邦訳もあるようだけれど、品切れ中なので原著を読むことにした。届いたのは、B5サイズの本。200ページぐらいのペーパーバックだが、紙質のせいで結構重い。半分近くは図版なので、そんなに時間をかけずに読みきれそう。デザインは、原著のほうが断然カッコ良いですね。 まず、1本目の「The Renaissance Conception of Artistic Progress and Its Consequences」を読み終えたのでメモを残しておく。邦題は「芸術の発展に関するルネサンスの概念とその影響」。歴史を紡ぐうえで、ある人物が先行する人物から受けた影響関係を、系譜学的に描くというのは広く見受けられる。たとえば、棟方志功がゴッホを見て感激して、影響を受ける、とかね(音楽でも、ビートルズに衝撃を受けて……みたいな語り口ってよくある)。ルネサンス美術史でも、そういう影響関係をつなぎにした発展の概念は有効だったみたい。 これに対してゴンブリッチはそれとは違う発展史の媒介を提案している。彼がここで取り上げているのは初期ルネサンス期の彫刻家、ギベルティが製作したブロンズの門である。これはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂でいまも見ることができる。この洗礼堂には、彫刻が...

ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展(世田谷美術館)

ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展(公式サイト) 先日、 平岡隆二さん とお会いしたときにオススメされていた展覧会に足を運んだ。日本の浮世絵がフランスの印象派の画家に大きな影響を与えていることはよく知られている。この展覧会は、ボストン美術館を西洋絵画作品と浮世絵(また、日本の工芸品とヨーロッパの工芸品)を併置することで、和から洋への影響を浮かび上がらせる、意欲的な展覧会だった。印象派絵画はとても人気があるし、今回の目玉であるモネの大作《ラ・ジャポネーズ》はそれだけで人を呼ぶ作品だと思う。けれども、絵画の配置によって、批評的な視座をまじまじと見せられたことに、インスタレーションの妙を感じた。個人的には、焼き物や七宝による装飾が施された刀の鍔が、アール・ヌーヴォー、アール・デコにどれだけの影響を与えていたのかがわかる展示がとても印象的だった。日本の影響下にあるであろう、ブシュロン社のインクスタンドの豪華絢爛さはもはやビザールの域に達していて、とても素晴らしいと思った。 ところで、昨今、こういう日本から西洋へという影響関係は「西洋に影響を与えた日本はスゴい!」というネトウヨ的な美学によってのみ回収されてしまうのが問題にも思う。先日平岡さんに教えていただき、大変感心したのだが、 北斎・広重といった有名な浮世絵作家が用いている印象的な「青」が、プルシアンブルー(ベロ藍)という舶来の顔料であったこと を考えると「日本はスゴい!」と称揚されるその浮世絵も、海外との交流がなければ存在しえなかったかもしれない。一方方向の影響関係でなく、双方向的な影響関係で歴史を考える視座は、本展覧会の図録に寄せられた世田谷美術館の遠藤望氏による「循環する歴史観」と無関係ではない。過去の展覧会で言えば2011年の 「南蛮美術の光と影」 や 「日本絵画のひみつ」 と対にして見るべきものなのかも。

ムネモシュネ・アトラス: アビ・ヴァールブルクによるイメージの宇宙

「ムネモシュネ・アトラス──アビ・ヴァールブルクによるイメージの宇宙」(公式ブログ) ドイツの美術史家でヴァールブルク学派のゴッド・ファーザーであるアビ・ヴァールブルクは、生前、図版や絵画などのイメージをパネル上に配置し、そこから人類の歴史のなかで引き継がれてきたイメージの歴史を描こうとしました。このパネル群は「ムネモシュネ・アトラス」と呼ばれています。結局、そのパネル群から書かれるはずであった論文は未完のままヴァールブルクは亡くなってしまうのですが、彼がどんな歴史を描こうとしたのかは、後世の研究者たちによって今なお論じられているようです。東京大学駒場キャンパスでおこなわれている「ムネモシュネ・アトラス展」は、写真撮影して残されているムネモシュネ・アトラスの画像データを大判プリンターで印刷して再現する企画でした。今回は再現パネルだけでなく、日本版『ムネモシュネ・アトラス』の監修者である伊藤博明、加藤哲弘、田中純による新作パネルも用意され、ヴァールブルクの意図を拡張しよう、という試みがなされています。 会場に入ると案内役の学生さん(大学院の方でしょうか)がおり、パネル上の絵に関する詳細が書かれたファイルを手渡され、パネルのデータを参照しながら展示を観ることができました(これがちょっと重くてPDFをネットで配布してスマートフォンで参照できるようにしたらスマートなのでは……と思わなくもなかったですが)。そのファイルを確認しながら、じっくりとパネルを一周するのに大体1時間ぐらい。その後気になったものをまた確認していく……と合計2時間ぐらいかかってしまうでしょうか。小説や映画のように、絵画から読み取られるイメージには終わりがなく、何時間観たらそのパネルが「わかる」というものでもない、ですし、パネル上のそれぞれのイメージは他のイメージとの関連によって、無限に意味が創出されていく……! 的なヴァールブルクの意図がそこにはあったわけで、時間の許す限り観れるものではあります。 占星術関連の図版や絵画、彫刻、広告など使用されているイメージはかなり多岐にわたっており、コラージュ・アートのようにも見えるパネルもある。イコノロジーでは、図像からその背景にある文化的なものまでが読み取られることになりますが、ムネモシュネ・アトラスはその発展とも言えるのでしょうか。それぞれの図像がネッ...

ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年 @国立西洋美術館

ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年(公式) 同じく上野で開催中の『マウリッツハイス美術館展』と同様、フェルメールをメインに据えた展覧会にいってきました(『学べるヨーロッパ美術の400年』なんですけどね)。東京文化会館の前には「マウリッツハイス美術館展 60分待ち」という看板がでていましたが、ベルリン国立美術館のほうはかなり混雑しているものの入場制限なしで入れました。チケット売り場は、年配の方向けに「こちらにあるのはフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』だけですが、よろしいですか?」と確認していて、それでちょっと流れが悪かったかも。「15世紀から18世紀までのヨーロッパ美術を、イタリアと北方の美術を比較しながら観ることのできる展覧会」、「学べるヨーロッパ美術」というコンセプトも、ちょっとイマイチわからなかったですね。結局メインは17世紀絵画であり、そのなかでもフェルメールじゃん、という感じがしましたし、回廊を歩きながら美術史を辿る感じは、常設展のほうが強く伝わってくる気がする。とはいえ、暗い絵が連続するなかで、フェルメールが現れ、柔らかい光が目に入ってくる感じは、グッとくるものがあり、これが人気なのも納得かもなあ、と思いました。

中原昌也 個展 @SPROUT Curation

中原昌也 個展 | Masaya Nakahara Solo Exhibition 4年ぶりとなる新作小説集『悲惨すぎる家なき子の死』の発売にあわせて、この本のために書き下ろした絵や、これまでに発売された単行本、CDジャケットの原画が展示されていました。人を嘲笑するようなコラージュとグロテスク、あるいは恐怖を煽るような線の生々しい表現は、小説やHair Stylistics名義での音楽活動での表現と通じると思いました。圧巻だったのはCDジャケットの原画が、壁の隅に集められて展示されているところ。このイメージの凝集は思わず顔を近づけて見入ってしまう迫力があり、そうして眺めていると「Here Come The Warm Shit」や「Hairport Convention」といった苦笑するしか無いアルバムタイトルの文字列を目にすることになります。 ちょうど私が観に行った日は、ダンサーの 東野祥子、音楽家のカジワラトシオとの共演を観ることもできました。Hair Stylisticsのライヴを観るのはかなり久しぶりでしたが、大量の機材を接続したケーブル類やスイッチ、ツマミを操作する姿は錬金術的なものを想起させ、なめらかに、境目を感じさせず変化していくノイズのパターンがとても良かったです。また東野祥子のダンスにも、人間の関節はこのように統御できるのか、と驚かされました。身体が機械であることを感じさせる、というか。 悲惨すぎる家なき子の死 posted with amazlet at 12.04.08 中原 昌也 河出書房新社 売り上げランキング: 80548 Amazon.co.jp で詳細を見る 会場で新作が先行で販売されていたので、購入して帰りました。読むのが楽しみ。

北斗七星の庭_展 重森三玲 @ワタリウム美術館

友人が面白いと言っていたのを聞き、20世紀に活躍した作庭家、重森三玲(しげもり・みれい)の展覧会へ。美術館での展示ですので、彼が設計した庭を持ってくるわけにはいかず、彼の手による書や水墨画のほかは、原寸模型や写真、映像が中心に見ることができます。よって、作品を鑑賞する展覧会、というよりは、重森三玲という人物紹介のようでしたが、それでもなかなか。「三玲って、あの落ち葉拾いのミレーですか?」と冗談めかして友人に訊ねると「そうそう、自分で改名して画家のミレーの名前をもらってるんだよね。で、子どもの名前もカントとか、ユーゴーとかゲーテとかつけてた、っていう」と教えられ「なにそれ、内田春菊みたいじゃないっすか」と驚いたんですが、そうした面白エピソードばかりではなく、庭という日本の思想を西洋美術の俎上にあげたうえで、日本の庭を再度考えた人だったのでは、という点を大変興味深いと思いました。彼の代表作のひとつ、 小市松の庭 の市松模様にしたってモダニズムの意匠を感じさせるもの。重森は作庭だけではなく、全国のさまざまな庭園を調査し、実測をおこなった大研究書も手がけている。この分類と分析の手法もまた西洋近代の知の様式にならったものでしょう。そうした知の営みから、再度、日本の美と自然が作り込まれている。それは単に自然の再現ではないはず。展覧会の会場で流れていた音楽は、細野晴臣によるアンビエントでしたが、この庭にもっともマッチする音楽は、武満徹だったのでは、と思いました。《鳥は星形の庭に降りる》ですからね、何と言っても。重森の研究対象に、西洋の庭園が入っていたかはわかりません。 ルネサンス時代の庭園には百科全書的空間として設計されたものがある そうですが、日本の庭にも庭の風景が和歌とひもづけられたものがあるんだとか。こうした庭のなかに存在するミクロコスモスがモダンにおいて、どう変化したのか、そうしたところにも興味を持ちました。例えば、それまでに配置された知が排除され、美へと統合される(美が目的化される)ことがあったのでは、とか。 日本の庭園 - 造景の技術とこころ (中公新書(1810)) posted with amazlet at 12.03.20 進士 五十八 中央公論新社 売り上げランキング: 283897 Amazon.co.jp で詳細を見る ミュージアム・ショッ...

解剖と変容:アール・ブリュットの極北へ チェコの鬼才ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァー @兵庫県立美術館

解剖と変容:アール・ブリュットの極北へ チェコの鬼才ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァー チェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品を日本で初めて紹介する展覧会だそうです。兵庫県立美術館での展覧会は初めて伺いましたが、安藤忠雄が設計したとてもカッコ良い建物。内部はコンクリート打ちっぱなしで寒々しいことこのうえない感じではありますが、光の入り方などで印象が変わりそう。伺った日がたまたま天気が悪かったので、寒々しい印象のままのコンクリートは、まるで原子炉をイメージしてしまいます(ホンモノの原子炉を見たことはないわけですけれども)。 (晴れてる日に撮影した美術館) アンナ・ゼマーンコヴァーは子どもを失ったり、流産したり、という痛みを伴った経験から次第に生きている子どもたちに対して偏執的とも言える愛情を注ぐようになり、精神を別な領域へと移してしまった女性だったようです。子どもたちが成長し、自立するようになるとその愛情を注ぐ対象が失われ、また別な不安定状態に陥る。そのとき、子どもから薦められて出会ったのが絵というあらたな注意の対象だった、ということです。暖かみのある色合いで描かれる、何らかの植物をモチーフにした(であろう)奇妙な物体のデザインが可愛らしかったですね。物体が意味するものの「無意味さ」「不可解さ」において、これはアートと言えども「おかんアート」の世界でもあるようにも思います。 ルボシュ・プルニーはゼマーンコヴァーの柔らかい感じとは対照的に、どこまでも攻撃的な作品が多かったです。この人もいろんな問題があって社会には適合できなくなり、年金を貰いながら好き勝手作品制作に打ち込み、遂には「芸術家」として認められたのだそう。この人の場合、自分は芸術家である、という自覚があり、執拗に自分が芸術家であるという証明をもらおうとしていたようで、そうした芸術家という名前への執着も病的であるのかもしれません。プルニーの作品は、コラージュに上に複雑に、何層にも渡って人体解剖図をモチーフにした線を重ね描いていく作品がメインで、その他に自分の血液を使用したものや、自分の瞼や唇、腕などを糸と針で縫い合わせていく過程を写真に収めたもの、ギリシャ彫刻やロダン、《マラーの死》など有名な芸術作品のポーズを真似て...

フェルメールからのラブレター展 @Bunkamura ザ・ミュージアム

先週の土曜日に観に行っていたのだけれど、感想を書き忘れていた展覧会について。 展覧会のタイトルにはフェルメールのタイトルが大々的にフィーチャーされ、どこぞの専門機関によって修復され色鮮やかに蘇ったフェルメールの絵画が世界に先駆けて鑑賞できる! というお話でしたが、これはちょっと誇大広告的でしょう。「十七世紀オランダの生活が垣間見える家庭画・民衆画」特集で、そこで当時のヨーロッパで手紙という通信手段はどのような役割を担い、どのように用いられたのかにも焦点が当てられている、というのが本当のところ。タイトルの「ラブレター」の部分はココにかかって来ていて、比較的地味な作品が集まるなかでフェルメールだけを宣伝素材として持ち上げすぎている、というのが率直な感想でした。展示作品も少なく、疲れる前に観終わってしまいましたし、これで1500円だったら映画を観たほうが良かったかなあ、いや、しかし、フェルメールのファンは多いでしょうから(ヒトラーとかね)端的な価値判断はできませんね。とはいえ、出口付近だけがやたらと混雑していたのは「え、もう終わりなの? 持ったいないからじっくり観なくちゃ!」という感情の現れのような気がするのですよ。 ただ、つまらなかったか、と問われれば、好きな絵もいくつかあって、楽しんで鑑賞できました。フェルメールは、あの独特のソフト・フォーカスっぽい感じを眺めていると「なんか近視が進んだのかな……」などと思ってしまいじっと見据えられなかったのですが、ピーテル・デ・ホーホの作品に出会えたのが収穫だったかな、と。 Google検索で調べたところによれば、ホーホはフェルメールの同時代人でかつ、活動していた場所も近かったそう。このことから、フェルメールとの比較対象として挙げられることも多いのだとか。そこでのホーホは「ほら比べてみてよ、フェルメールのほうがすごいでしょ」と分からせるためのかわいそうな扱いだそうですが、今回展示されていた「中庭にいる女と子供」「食糧貯蔵庫の女と子供」にある温かみ・生活感にはフェルメール以上の魅力を感じました。前者は画面全体が暖色系なので「温かい」というイメージが伝わるのは当然かもしれませんが、後者は薄暗い室内を描いたものです。その色合いはヨーロッパの寒さや、現代からすれば想像できない類の民衆的な暗さを覗かせる。でも、女と子供の親密さによ...

日本絵画のひみつ @神戸市立博物館

神戸にいく用事があったため、そのついでに神戸市立博物館に立ち寄りました。この博物館には内部に「日本において製作された異国趣味美術品」を蒐集した池長孟という大人物のコレクションを収蔵している南蛮美術館が存在する施設です。先日の 「南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 @サントリー美術館」 で展示されていた作品のなかにはこの美術館から貸し出されたものが多くあります。この日はサントリー美術館で出会ったエキゾチックな作品群と再会し、改めてその不思議な魅力を再確認できました。 この日の特別展は「日本絵画のひみつ」。伺ったのがちょうど初日、とまるで自分を待ってくれていたかのようなめぐりあわせですが、世間的にこの手のジャンルが人気なわけではないせいか会場はガラガラ。おかげでサントリー美術館ではじっくり観ることのできなかった南蛮屏風の細部も確認できて良かったです。日本画に使用された顔料や、画家が模写を先達の作品を模写することで伝わっていく手法やそこからわかる影響関係がこの展覧会における「ひみつ」とされているようです。《模写》というテーマでは狩野探幽が原本であるという「南蛮人交易図屏風」の様々な粉本(模写したもの)が展示されていて、とても興味深かったです。原本の存在は現在確認されていないのですが、右から左へと物語のような流れを感じさせるユニークな図柄は多くの画家によって模写された理由を納得させるものです。 今回の新しい収穫としては、秋田蘭画との出会いがひとつ挙げられます。秋田蘭画は18世紀後半の秋田藩藩主、佐竹曙山とその家臣であった小田野直武によって隆盛した西洋絵画の影響を多大に受けた写実的な日本画の流派だそうです。お殿様でありながら平賀源内を招いたり、自身もセンス爆発な絵を描いていた佐竹諸山は「秋田のルドルフ2世」とでも言うべき人物だったかもしれません。くっきりとしたコントラストで描かれた鳥や花は、今で言えばほとんどインテリア絵画的なセンスなのですが、それが掛け軸になると異様なクールネスを放って見えます。また小田野直武が杉田玄白らによる有名な『解体新書』の扉を書いている、という事実も興味深かったです。秋田蘭画とはまた別に、ほとんど同時代の洋風画家、石川大浪はオランダ語の本の図版を多く模写しているます。これもカッコ良かったです。

南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 @サントリー美術館

ふたつの文化が出会い、それぞれのスタイルがマリアージュされることで新しいスタイルが生まれる。この現象はさまざまな領域において確認されることでしょう。例えば、大きな歴史でいえばヘレニズムが代表と言えるでしょうし、モンド・ミュージックの文脈において、テクノ歌謡などは一部の好事家に大変愛されたジャンルとして認められている。それらの魅力とは「一粒で二度美味しい」というお得感だけではなく、元々別れていたそれぞれのスタイルが止揚され、元々のものとは全く違った異形感が醸し出されていることにもあると思います。16世紀半ばからポルトガルやスペインが日本に持ち込んだキリスト教美術や西洋絵画の技法が日本画に影響を与え、日本人の手によって制作された南蛮屏風の世界もこの異形感で我々の目を楽しませてくれるものです。長崎歴史文化博物館の平岡隆二さんの研究 *1 に触れることで、かねてから南蛮美術に興味を抱いていたのですが、今回のサントリー美術館での企画展『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』は、そんな個人的なニーズにぴったりなものでした。 メインとなるのはタイトルにもある『泰西王侯騎馬図屏風』というヨーロッパやエチオピア、トルコなどの統治者を描いた屏風。この大作は、2つで1セットとなっており普段はサントリー美術館と神戸市立博物館とで別々に収蔵されているそうですが、今回は揃いで並べられて鑑賞することのできる貴重な機会と言えましょう。モチーフとなっているのはウィレム・J・ブラウというオランダの地図学者の世界地図にあった装飾で、これをもとに日本人の画家が制作したものなのだそうです。ほかの南蛮屏風は、描かれているものが西洋のものだけれど書き方は日本画そのまま、西欧人の顔はまるで黒船で来日した《ぺるり提督》のものだったりするのですが、この作品は《抜け方》が圧倒的でした。 しかし、一番のインパクトはキリスト教禁制下で制作されたものを紹介するコーナーにある『元和五年、長崎大殉教図』でした。こちらは長崎にいた日本人のキリスト教徒が迫害から逃れてマカオにたどり着き、そこで制作したものと言われているそうです。技法的に特別優れているものではないのですが、長崎でキリスト教徒と宣教師たちが見せしめに虐殺されている様子が一大パノラマで描かれており、かなりエグい。いままさに残首されようという瞬間や、すでに落とされた首が...

大友良英/アンサンブルズ2010 共振 ドキュメンテーション

大友良英らによるインスタレーション展『アンサンブルズ2010 共振』 *1 には足を運んでいないけれど、先日購入したドキュメントDVD *2 を観終えたので感想を書いておく。このインスタレーションを乱暴に要約してしまうと、ターンテーブルや楽器が自動的に音を出し、美術館の内部を音の回廊のように変貌させたもの……とでもいえるだろうか。そこで奏でられる《音楽》に同じ瞬間が訪れることはなく、また製作者自身どのように《音楽》が展開されるのか、その全貌を把握することはできない。偶然の音楽ではなく、どこかへ向っているもの、と大友が語るそのコンセプトは直ちに「管理された偶然性」(ブーレーズ)を想起させるものだし、また、インスタレーション的音楽/音楽的インスタレーションで言えば、シュトックハウゼンがそうしたものを制作していたような気がする(武満徹だったか? 記憶にあるのは音楽のなかを歩く《音の散歩道》というコンセプトで、もしかしたら構想されただけで、実際には作られていないかもしれない)。 同じ瞬間がおとずれず、さまざまに姿を変えていくこの展示された音楽は、最初から記録不可能なものであろう。このDVDもさまざまな可能性のなかから、たった一片だけを切り取ったドキュメンテーション、ということになる。よって、実際の展示とは不可分なもの(展示を観ていなければ、楽しめないもの)とも言えるだろうし、逆に、実際の展示とは独立したもの(展示を観ていても、聴いていなかったものが収録されているかもしれないもの)とも言える。 「完成した音楽を提供するのではなく、音楽を自分で発見してもらう」と大友はライナーノーツに書いているが、このDVDは「完成した音楽」としてパッケージ化されて提供されたものだ。 完成した音楽には「ここがはじまりで、ここがおわりですよ」という区切りがあるけれど、自分で発見する音楽には、どこにもそうした区切りがない。それは自分で設定するもので、また、そうしてはじまりとおわりを設定したところで、それが正解かどうかもわからない。そうした音楽は、どこまでいっても聴きつくすことのできない音楽、ということになる。いま、ふと思いついたけれども、その終わりがない感じ、というのは、即興演奏者はいつ演奏を止めるのか、という問題と繋がるのかもしれない。聴き手が音楽の区切りを決定付けることで、音楽を与える側と受ける...

アルブレヒト・デューラー版画・素描展 -宗教・肖像・自然- @国立西洋美術館

 ドイツにおけるルネサンスを代表する画家、デューラーの展覧会にいってきました。12月のはじめぐらいまでは藝大の美術館のほうでもデューラーに関連した展覧会(彼が制作した『黙示録』を題材にした作品)が開かれていましたが、そちらには行けず。これについては残念極まりない感じでしたが、こちらの国立西洋美術館のほうの企画展だけでも、デューラーがいかにエポック・メイキングな芸術家だったのか、というのがわかる素晴らしい企画だったと思います。全部の作品をじっくり見ようと思えば、軽く三時間は必要。しかし、会場が広く、また、この手のジャンルが日本で人気がない(? 日本で人気があるのはやはり印象派でしょう)のもあって、ストレスなく素晴らしい作品を鑑賞できました。作品の横に併置された解説も丁寧で、勉強になります。  線によって描かれた陰影の表現、これがやはり素晴らしく、白い部分が白以上に輝いてみえる。たとえば、犬の毛並みの表現なんか、半端じゃなくテロテロしてるんですよね、そういうところが見ていて楽しかった。どこで読んだかは忘れてしまったのですが、デューラーは絵画を、何かを理解するための補助的な手段として考えていました。絵画を介することによって、聖書の中身や様々な技術はより一層理解されやすくなる(大意)。こうしたデューラーの言葉は、展示された解説文のなかでも引用されていました。こうしたところから、彼はイメージが人に与える効用というものを強く意識した画家であった、ということができます。  彼が生きた時代というのは、活版印刷が発明されて、印刷物というのが大きなビジネスになりはじめた時代でした。この時代の流れに乗ったのがデューラーだった、というのがこの企画展では大きくフィーチャーされています。展示の第一部は、キリスト教を題材とした作品が並べられていますが、これはもちろん、イメージによってキリスト教の教義を理解しやすくし、そして、印刷物によって広く頒布するためだったのです。また、第二部の肖像は、当時の権力者のためのプロパガンダとして機能しましたし、第三部の自然をテーマにしたものは、博物学的なものとも関連するものでしょう。こうした観点から、デューラーの制作活動は、元祖メディア・アーティスト、元祖複製技術時代の芸術家、として捉えることができるように思いました。  個人的には、デューラーの「犀」が見れただけ...

「シャガール―ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展 @東京芸術大学大学美術館

 シャガール展、最終日に行ってまいりました。午前中の早い時間から入場制限がかかるほどの大盛況ぶりで、この画家の人気の高さが伺えるのですが、展示内容は結構量が少なくてちょっと物足りなかったかもしれません。「ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」というタイトルに打ち出されている主題もよくわからなかった……。マレーヴィチやらカンディンスキーといった前衛の大物たちと交流はあったけれど、それによってシャガールの絵の主題的なところが大きな変化があったか? というところは今回の展示ではわからず、むしろ、シャガールは一貫してプライベートな事柄にフォーカスを当てた画家だったのでは、という風に感じました。フィドル弾きであったり、六芒星であったり、ユダヤ的なモチーフが彼の絵画に登場するのは、彼のユダヤ人としての出自を強く印象付けるものでありますし、また、幻影のなかに描かれたような故郷の風景も、生まれた場所への帰還することに対する憧憬を感じさせる。その憧憬も、言ってみればユダヤ的、と言えるのか。いや、わかりませんけれど、とにかくシャガールの絵には彼の生まれに強く関係づけられた言語があるように思いました。そこが良かった。最近、友川かずきを聴きなおしていて、彼の歌の「訛り」にそういった出自から逃れられないこと、生まれがもたらす宿命みたいなものの強さについて考えていたんですが、シャガールについても同じことが言えるのかもしれない。 (友川かずき「歩道橋」。これ、完全にピンク・フロイドだよなあ……)

ブリューゲル版画の世界 @Bunkamura ザ・ミュージアム

1000ピース バベルの塔(ピーテル・ブリューゲル)<世界最小ジグソー> TW-1000-803 posted with amazlet at 10.08.15 テンヨー 売り上げランキング: 16976 Amazon.co.jp で詳細を見る  ブリューゲル(といえば一般的には農民の生活を描いた絵、あるいは上記のジクソーパズルになっている油絵で有名な画家として知られていますが)といえば16世紀のネーデルラントを代表する画家でありまして、それは同時に16世紀的な表現者の代表者ともいえましょう。今年は『ミクロコスモス』 *1 も出ましたし、このあたりの初期近代の精神史と密接に絡みあう分野が偶然とは思えないほどに熱い年であることを感じさせるそういった展示でした。ミュージアム・ショップに並ぶ「関連書籍」も、アタナシウス・キルヒャーに関する本ややコメニウスの『世界図絵』など直接関連してはいないもののの、的を射すぎるセレクトで素晴らしかった。美術畑のことは実際のところよくわからないのですが、こうして16・17世紀の想像力が高まりすぎた世界観が表現された美術にフォーカスがあてられる企画展というのは、個人的に好ましく思われ、それはフリークス的な見世物小屋精神と隣り合わせのようにも思うのですが、なにかカッコに入れて「美しいもの」として展示されているものとは明らかに違っていて、ひとつの刺激を与えてくれる。良いイベントだと思います。私は図録も買ってしまいましたよ……(ラブレーの翻訳者である宮下志朗先生が文章を寄せていたからでもあるのですが)。  農民の生活を描いたものや、聖書にのっている話を題材に取った寓意画も興味深く観れたのですが、私がとくに感銘を受けたのはやはり展示のしょっぱなに置かれていた風景画のシリーズで。これは街や農村の風景を、全景的に描いた作品群だったのですが、おそらくどこにも存在しない「その街のすべてが見渡せるパースペクティヴ」から描かれるそれは、まるでその画面のなかに世界のすべてが描かれるようであって、まさにミクロコスモス‐マクロコスモス――という大掛かりさ。白黒の版画の世界にあまりにも大きな世界が映し出されるところに、素直に驚愕してしまい、ひたすら「すげえ、すげえ」と感動しました。画面のなかでは、その世界に生きる人たちの生活が小さく描かれている...

金沢21世紀美術館 オラファー・エリアソン

 建築について語ることが何かオシャレな行為のような気がして、意識的に避けている……というのは建前で本当のところは、よくわからないので語れない(語る必要もない)というのが実情だ。よって、金沢21世紀美術館がどのようなものであったかについては、極めて主観的な感想を述べるしかなくなる。とはいえ、そのような感想を述べたくなる建物がある、というのも素敵なことなんじゃなかろうか。こうして整然と並べられた椅子の様子を確認するだけで、ちょっとした快感に襲われる空間なんてなかなかない。  世界は生活をおこなうことによって、じょじょに乱れていく。本棚や食器棚やガスレンジの周りがいつのまにか乱れてしまっている状態を思い起こされたい。世界の秩序はじょじょに失われていく。それは生活する世界の宿命である。だから、掃除をしたり、整理をしたり、という行為は、秩序を立て直すためだ、と言って良いだろう。油で汚れた皿の一枚一枚を洗い上げ、食器棚へと戻したときの感覚は、秩序を回復した瞬間の癒える感覚なのだ。  しかし、この金沢21世紀美術館の整然さは、決して汚れたり、乱れたりすることがないんじゃないか、なんてことを錯覚させるような気がする。    美術館ではオラファー・エリアソンのインスタレーションを体験した。どの作品も人間の五感を刺激するものだったが、大部分が視覚に影響を与えるものだった。そこでは普段無意識に認識してしまっている視覚の連続性が、断絶や段階のない変化を受けることによって、意識の俎上にあがってくる。エリアソンの作品を体験することによって覚える素朴な驚きは、我々が日常的に眼で見た世界に対する驚きであるようにも思った。あと本日25歳になりました。

諸橋近代美術館

 ゴールデン・ウィーク中は実家(福島県)に帰っていたのだが、そのついでに裏磐梯にある諸橋近代美術館に行ってきた。ここはゼビオ創業者である諸橋廷蔵のコレクションが収蔵されている。コレクションはサルヴァドール・ダリの作品が中心。それらが常設展示されているのを観ると「福島の山のなかに、こんなすごい作品を集めておいて良いのか?」と思ってしまう。  とくに《テトゥアンの大会戦》。天井まで達しようかという巨大なキャンバスに描かれた判じ絵的な戦争の情景は、分析を拒むほどに迫力があってすごかった。印象派の強い影響が感じられる初期作品の展示や、『アンダルシアの犬』がエンドレスで上映されているところも良い。作品の傍らに展示された詳細な解説などを読むにつれ、シュールレアリスム絵画とは分析され、意味を与えられることによって作品としての完成を見るものなのかもしれないなぁ……などと思う。  もう一つの常設展は「印象派と20世紀の巨匠たち」。こじんまりとしているのだが、ルノワール、ゴッホ、ユトリロ、シャガール、ピカソなど、人気のある“巨匠”たちの作品がある。コレクションには他にも、キング・クリムゾンのジャケットに採用されているパメーラ・クルックの作品もあるらしい。これも観てみたいものである。  企画展は「ルオー展」。厚塗りされた絵の具が不思議な立体感/遠近感を産む作品があり、ずっと眺めていられるようなものが多かった。とくに何かが理解できる、というものでもないのだが、写真ではなくホンモノを観る意味みたいなものを感じて満足。

「巨匠ピカソ愛と創造の奇跡」@国立新美術館

Pen (ペン) 2008年 10/15号 [雑誌] posted with amazlet at 08.11.15 阪急コミュニケーションズ Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は国立新美術館へ。この新しい美術館へと初めて足を踏み入れたんだけれども、黒川紀章ってすげーのなぁ!って思った。晩年、都知事選に出馬してるのを見て「何この人、なんかサイコな人なの?」とか思ってたけど、ホント、カッコ良い建物を作ってたんだなぁ……なんかサイバーパンクの世界みたいな空間だった。  で、お目当てはサントリー美術館との共同開催のパブロ・ピカソ展。画家の生きた時代を作風の変遷で区切った展示は、ひとりの天才が生涯続けた模索のプロセスを覗くことができてとても興味深かった。時代によって、キャンバスに描かれたものの雰囲気はまったく異なっている。しかし、そこにはそれまでに描いてきたものの要素が強く残されているのが見てとれる。変化のなかには、連続性がはっきり表れているのだ。ピカソのように作風を変え続けた20世紀の芸術家に、音楽界ではイゴール・ストラヴィンスキーがいるけれど、彼の音楽の変化には果たしてそのような「線」が見出せただろうか、と絵を眺めながら思う。パリで出会ったストラヴィンスキーとピカソは親友とも呼べる関係だったと聞く。そのせいか、彼らを併置して語るものは多い――そしてこのとき、彼らとアルノルト・シェーンベルクは対照として置かれるのだ。 ストラヴィンスキーは、音楽史の終焉をクールに見定めつつ、あえて変則技を使って、なお残されているわずかな可能性を汲み尽くそうとした人だった。それに対して、もはや誰一人自分に耳を傾けてくれる人がいない荒野へ踏み出そうとも、断固として音楽史を前進させようとしたのが、シェーンベルクである(岡田暁生『西洋音楽史』より)  ピカノの絵の変化のなかに見出せる連続性を考えれば、むしろピカソはストラヴィンスキー側にいる人間ではなく、シェーンベルクの方に近いのではないか、と絵画にはほとんど門外漢でありながら考えてしまう。ピカソに自らの手法によって、絵画史を前進させようとするような誇大妄想的な意思があったかは定かではないが、おそらく変化は常に自分の絵の「前進」であったのではなかろうか。他者からの評価がどうあれ、「過去よりも今の絵のほうが良い」という強い確信があったの...

アネット・メサジェ展『聖と俗の使者たち』@森美術館

 私には大抵のものを耳で考えているようなふしがあるため、こういった視覚的要素が強い芸術方面には疎いのだけれども、なんとなく観に行ったアネット・メサジェのインスタレーションはとても興味深く観れた。どれも作品の規模が大きく、強烈な印象を与えてくれるものが多かった。  身体の一部分だけを写した写真や、バラバラにされたぬいぐるみなどの素材がグロテスクなレベルにまで性的/生的なイメージを伝える作品へと再構築されている。女性の作家である、という情報を会場に入る前から持っていたせいかも分からないが、ここで与えられるイメージは強く女性性、少女性と繋がった。可愛らしさを切り刻んで、パズルのように組み替えたときに露になるのは、少女の残酷さのようなものかもしれない。ただ、血の臭いを錯覚しそうなぐらい生々しすぎる作品もあり、これはちょっと私には辛かった。あと、この展覧会に『聖と俗の使者たち』というタイトルがついている理由はよくわからない……。  一点、森美術館という場所の特性を最高に生かした展示があり、これには感銘を受けた。作品のタイトルは覚えていないけど。それは天井に吊るされた畸形な感じの大きなぬいぐるみが、円を描くようにしてグルグルとまわっていく……というもので、背景には地上53階から見える東京都内の景色が配置されている。薄暗いトンネルのような通路を歩いていくと、途中でいきなりそんなものが現れる!というところに、ダイナミックな感動があってとても良かった。観に行ったのは昼間だったのだが、窓から入る光によって作品の見え方もだいぶ違ったんじゃなかろうか。基本的に美術館という建物は外の世界を遮断した特別な空間(コンサート・ホールも同じだ)だけれども、あえて窓を開くことによってこんな観せ方も出来るのか、と思った。