以前書いた こちらのエントリ に対して、 id:sumita-m さんから 角力についてのメモ - Living, Loving, Thinking というコメント的エントリ&トラックバックをいただいた。このエントリに私は以下のようなコメントを書いている(抜粋)。 バッシングについてはやはりインターネットという存在についても考えさせられます。かつては一過性の熱に過ぎなかった《ネタ》が、インターネット以降においては常に問題への再参入・問題の再加熱されうる状況を指摘できるでしょう。 読み直すととても言葉が足りない感じがするのでこれに少し補足をいれつつ、話を進めていきたい。 インターネット以前においては、スキャンダルやバッシングの火種(ネタ)は一過性のものであり、問題が加熱される祭り的な状況が一旦終わってしまえばなかなか掘り返されることのないものとして置かれていた。しかし、インターネット以降、とくにあらゆるものがデータベース化され、さらに検索によって容易にアクセス可能な状況が成立してからというものスキャンダルは一過性のものでなく、反復可能なものとなっている。 たとえばある人物についてインターネットを使って調べるとしよう。検索サイトでヒットしたものの上位には、その人物のオフィシャルサイトとウィキペディアが表示される。オフィシャルサイトにはもちろんかつてその人物が起こしたスキャンダルについては記載されていないだろう。しかし、ウィキペディアにはしっかりとその事件の記述があるかもしれない。 それを読んだ人物は「へぇ、こいつ、こんなことやっていたのか!」、「逮捕歴あるのか!」などという驚く。それと同時に、その人物が起こしたスキャンダルは、リアルタイムでその祭りを体験していないものであるはずの読み手に記憶されることとなるだろう。このように、インターネット(とウィキペディア)はスキャンダルの忘却不可能性をもたらしているのである。 これはウィキペディアに記録されるものにとってのリスクを増大させていることも指摘できる。スキャンダルから月日が経ったときでも「あいつ、今じゃ平気でテレビに出ているけれど、実は麻薬やってたんだぜ!」という風に語られる可能性に常にさらされ続けているのだ(このような語りを、スキャンダルの再加熱と読んでも良いだろう)。忘れられることのないスキャンダルは、記録...