12世紀のコルドバに生まれたイスラームの学者であり、中世哲学にも多大な影響を与えたアヴェロスについて記述する書き手の多くは、まず「アブルワリード・ムハンマッド・イブン=アハマッド・イブン・ルシュド」という彼のとても長い名前について触れる。アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのアヴェロエスを主人公に据えた短編「アヴェロエスの探求」の書き出しも同様だ。ボルヘスの作品を愛好している読者は多い。しかし、短編集『エル・アレフ』に収録されたこの作品ほど、一読して、なにが書かれた作品なのかが掴みにくいものもないだろう。 実在するかどうかも判然としないアラビア語の名前をもつ人物たちの問答や、アヴェロエスが参照した過去の学者の名前、あるいは、書き手のボルヘスが表現として書き加える思想家の名前……さまざまな固有名が飛び交い、ともすれば、単に衒学的な作品として読まれてしまう。アヴェロエスの長大な名前すらも、人を惑わすギミックのように読まれてしまう。 しかし、本作はただ単に衒学的なだけの短編ではない。言語の儚さや淡さが、あるいは言語がリアルの世界に到達するまでの無限の距離(つまり到達できなさ)が表現された、とてもボルヘスらしい作品なのだ。以下では、作品を要約しながら、そこになにが書かれているかを詳しく見ていくことにしたい。 伝奇集 (ラテンアメリカの文学 (1)) posted with amazlet at 14.11.25 ボルヘス 集英社 売り上げランキング: 414,706 Amazon.co.jpで詳細を見る なお、テキストは集英社の篠田一至訳を用いる( 白水社の土岐訳 はあまり良くないためお勧めしない。今なら 平凡社の木村訳(最新版) が手に入る。 わたしはまだ読んでいないけれども )。原文に関しては、著作権的にはNGだろうが こちらのサイト を参照した。また、 英訳のテキストも公開されている 。 1. (要約) シエスタの静寂の最中、アヴェロエスが住む部屋には、鳩の鳴き声や噴水の音だけが届いている。普通の人間は眠りこけているはずだが、彼はガザーリーの『哲学者の矛盾』に対する反駁である『矛盾の矛盾』を書くのに没頭している。そこに突然、執筆を中断させる気がかりな思いが脳裏をよぎる。彼のライフワークは、アリスト...