思想の体系(システム)や政治の体系(システム)は、自分たちと同じでないものは何ひとつのぞまない。システムが強化され、存在するものを同じ名のもとに括るようになればなるほど、同時にそうしたシステムは存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる。 システムは外部を求めない。システムは他者を求めない。システムが求めるものはシステム内だけでコミュニケーションがとることが可能である、システムの鏡像としての他者である。そのように想定される他者はもはや他者性を持っているとは言えない。他者という被り物をした傀儡である。強化されるシステムの内部では、「同じ名のもとに」主体は束ねられ、標本化されていく。 「AはBである」と唱える思想のシステムAは「AはBではなく、Cである」と唱える他者の思想のシステムBを認めない。仮にシステムBを認めてしまったならば、システムAは存在することができないものとなる。ゆえにシステムAは、はBを徹底して排除しようとする。あるいは、排除しようとしない。そもそも「存在しなかったもの」として無視しようとする。このような行為をアドルノは「ファシズム的な同一化」と呼んでいた。 しかし、現実に存在するものは完全にシステム化され得るものとしては存在していない。だからこそ、システムが強化されればされるほど、「存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる」。このことを確認するためには、やはり第三帝国について触れておくのが最も簡潔だろう。 第三帝国が理想とし、命題として掲げた国家とは「純粋なゲルマン人によって統一されたドイツ」である。しかし、現実にはその土地には多くの非ゲルマン民族に属する人々が存在していた。現実は命題に反している(それはあってはならないことである)。ホロコーストはそのような現実を理想化するために駆動した。そして、事実、多くの非ゲルマン系の人々がその土地を去ることを余儀なくされ、去らなかった人々は理想によって存在の許されない立場におかれた。これによって、非ゲルマン人は存在していないものになり、第三帝国は正常で健全なゲルマン人によって統治されたことになる。 しかし、このような事態は理想とするシステムを現実からより引き離すことになる。その理由はごく単純な事柄にある。「存在していない」とされている非ゲルマ...