黒田硫黄の単行本最新刊。これまで以上に「漫画にとって絵ってなんだろうな」って考えさせられるような漫画である、と思った。「これは良い漫画だ」と言うとき、絵の精密さ/正確さなんて漫画にとって実はちっぽけな技術に過ぎず、絵が精密でなかったり、正確でなかったりしても、コマとコマの間にある動きがあれば「良い漫画だ」って言えてしまえるような……とか言っていると、じゃあ、一体、我々はどのように漫画を読んでいるのか、っていうところに気が向かう。その認識方法はどうなっているのだ、と。漫画。それ自体は1ページに描かれた絵なのだが、その1ページはコマによって区切られていて、1ページのなかの1コマのなかにも絵がある。コマ、というミクロな見方もできれば、ページ、というマクロな見方もできる。しかし、ページもコマの連なりによって形成されたものであり、もっと大きく捉えるならば「漫画」はページの連なりによって形成されたものである……となると、我々は漫画の何を読んでいるのだろうか。言うまでもなく、以上のようなことはきっと「漫画論」をやっている人が既に論じているのだろうけれど、『あたらしい朝』を読んだらそのようにして書かれたものを少し読んでみたくなった。とても映像的(っつーか動画的)な漫画である、と思う。しかし、実際のところ、それは映像(動画)ではなく、1コマ、1コマの静止画でしかない。ではそのときの映像「的」――この「的」が生まれる源泉にはなにがあるのだろうか。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

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