第四章 中世における記憶術とイメージの形成
引き続き、中世の記憶術の話です。前章では記憶術の「弁論術から倫理学への河岸変え」というダイナミックな変化について指摘されていましたが、イエイツはこの変化をとくに重要視しているようでかなり詳しく見ているようです。中世において、スコラ哲学の人たちが記憶術の規則を倫理学に適用したことで、13世紀にもその技法は伝えられ、さらにそれが14世紀により大きな影響の波となって時代へと流れ込んでいく……といったことが章のはじめで予告されます。この章は、先の時代へと進む前に、具体的に中世の記憶術とイメージの形成がどのようなものであったのか確認するものとなっています。具体的な記述が多いところですので、詳細は本書を読んでいただいた方が面白いかと思われます。個人的には以下の指摘が興味深いと思われました。
アクィナスの記憶術の規則で重視されるのは、場よりも配列順であり、この配列順とは議論の道筋にほかならない。素材が順序にしたがって配列されれば、その記憶も対応するイメージの配列順になされれることになる。それゆえ、アクィナス流の記憶術を識別するには、古典時代のやり方でさまざまに区別された場に配されたイメージを探す必要はない。そうしたイメージは、整然と配列された場におかれているからである。(P.130-131)
この考えの基盤になっているのはまさしく第二章で触れられたアリストテレスの著作なのですが、このような秩序・体系的な知の目指し方が示されるだけで、私としては興奮してしまうのでした。いいなぁ、スコラ哲学。
第五章 記憶術論考
さて、ここからがこの『記憶術』という本の序盤のクライマックスです。かなりじっくりとイエイツとともにギリシア時代から見てきましたが、この本が問うているもっとも中心が15世紀、16世紀における話です。この時代がもっとも記憶術関連の資料がふんだんにあるのだそうです。この章ではその資料についての吟味がおこなわれています。
前章までを振り返ってもらうとわかりますけれど、ここまでに登場してきた資料はあくまで「弁論術」や「倫理学」といったカテゴリの本の一部に、記憶術が用いられていた、というものでした。イエイツが調べたところによれば、14世紀以前に「記憶術」ただそれだけを扱った本、つまり「記憶術論考」というのは見つからなかったんですって。しかもこの時期の記憶術はまたもや変化を遂げています。
ひとつは、イエイツが「デモクリトス」タイプと名付けたタイプの記憶術が現れている。これは『ヘレンニウスへ』の影響がみられず、アリストテレス的なイメージの連鎖の規則にしたがっており、にもかかわらずアクィナスへの言及はないものだそうです。この典型として、1422年からパドヴァ大学で教鞭をとっていたフランシスコ会修道士のロドヴィーコ・ダ・ピラノのテキストが挙げられています。このような新しいタイプの記憶術が急に現れた要因のひとつとして、東ローマ帝国の没落と滅亡をきっかけにして、ビザンティウムにのみ伝えられてきたギリシア時代の知が西ヨーロッパに伝わった……という可能性をイエイツは指摘しています。これはまたダイナミックですねえ。
こういったものと混ざり合うことによって、この時代の記憶術は一層複雑になっていったようです。このなかでもイエイツは16世紀のドミニコ会修道士、ヨハンネス・ロンベルヒとコズマ・ロッセリウスという2人をとくに重要視しています。前者は『記憶術集成』、後者は『記憶術宝典』というそのものズバリなタイトルの本を書いている。どちらもダンテに影響を与えた、多層的な場を記憶のための場所として作り上げ、視覚的アルファベットによる記憶術を提唱しています。そこで出てくるイメージは、アクィナス流の「実体とつながりをもったもの」ではなく、もっと簡略化され・世俗化されています。
たとえばロンベルヒの視覚的アルファベットには鳥の絵(鳥の名前の頭文字で、鳥がアルファベット順に並んでいる)が用いられており、限りなく寓意性が低くなっています。このような現象をイエイツは「純粋な記憶技術」と呼んでいます。ただ皮肉なことにこういった技術を広めるきっかけとなった印刷術と製本術の発展によって、この時代、記憶術は存在の意味を失っていくのでした。「同じ本が豊富に出回り、書かれた内容を逐一記憶にとどめる必要などなくなった」(P.158)のです。さらに追い打ちをかけるように、記憶術はエラスムスを代表とする人文主義陣営から「野蛮な時代のもの」(P.162)とみなされています。
私は記憶が場やイメージによって助けを受けることは否定しないが、最良の記憶は、たゆまぬ努力、秩序ある扱い、細心の注意という3つの要に立脚するものである、と考える。(P.161)
以上はエラスムスの著作からの引用です。こうして苦境にあった記憶術は、そのまま西欧のアンダーグラウンドに沈んでしまったのか、今日考えられているように、なんだか怪しげなモノとして16世紀に片付けられてしまったのか、というと「そうではない」とイエイツは答えています。そうではないのだ、実は、退けられて衰えるどころか、新プラトン主義の文脈のなかに記憶術は溶け込み、アンダーグラウンドどころか「ヨーロッパの中心的な伝統のそのまた中心的な位置」(P.162)に居座り続けた、とイエイツは言います。
さて次章からその記憶術のルネサンス的変容についての分析です。ここからが本番。果たしてイエイツは我々になにを見せようというのでしょうか……?
(続く)
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