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たけみた先生の翻訳によるルーマン『新しい上司』を読んだよ!



新しい上司:イントロ - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第一節 - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第二節 - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第三節 - たけみたの脱社会学日記
 id:takemitaさんによるルーマン私訳シリーズより1962年の『新しい上司』が公開されています。『行政学における機能概念』についての感想*1のときにもチラッと書きましたが、『新しい上司』は具体的な事例について記述がおこなわれているとても取っ付きやすい論文で「ルーマンって、こんな議論もしていたんだなあ」というのが驚きでした。最初の問題提起としては「人事異動で新しい上司がやってくると、組織の生産性が一時的に落ちたりするよね。でも、それってなんでだろう?」なんていうのが掲げられていて、スッと入り込める感じ(なにせ、会社員だから自分の例と照らし合わせることができるしね)。




 社会にはいろんな役割があって、組織なんっていうのも役割の集合体みたいなものだ。そこには「友だち」だとか「息子」だとか明文化されていない役割もあれば、「部長」だとか「係長」だとか明文化されている役割もあるだろう。で、建前的には組織というのは、後者の明文化された役割が集まってできたものだ。明文化された役割っていうのは、その役割の人がどういった権限をもっているのか、どういった仕事をすればいいのか、というのがちゃんと決まっているから、もし人事異動で部長が変わっても、その部長が有能でも無能でも「役割」自体には影響がない。こうした役割があることで個人にひっぱられずにシステムは存続するように見える。




 でも、実際にはそうじゃない。部長が変われば組織が変わったりもするし、なんか初めのほうはバタバタしちゃって上手く業務がわからなかったりする。営業の課長やってた人がいきなりシステム部門の課長になったりしたら、上司が現場のことをなにも知らないから色々教えてあげなくちゃいけなかったりするし、当然システム部門の人が新しい課長がどんな人かなんか知らないかったりするわけ。「えーっと、神奈川支社の鎌倉営業所で四年間課長やってまして」なんて言われても、知らないよ、というお話。そんなだから新しい課長を受け入れたほうでは「前の課長にはいろいろと頼みやすかったけど、今度の課長にはなんか頼みにくいよね(よく知らないし……)」とか仕事やりづれーな、って思ったりするじゃんか。




 こういうのをルーマンは非公式な役割期待と呼んでいる。前の課長とは仲良かったから、いろいろ無茶なお願いができたけど……というのは明文化された公式の役割の範疇にはないものだよね。いくらシステマティックに構築された組織でもそういうのがあって、完全に非人格的な振舞いはできないものなのだ、というのがルーマンの分析。つまり、組織は個人の影響を思いっきり受けたりする、と。厄介なもので新任の課長は、前の課長と比べられたりして「前の人は有能だったけど、今度の課長は……」って感じで部下にナメられたりすることもあるし、いろいろ大変なのだ。新任の課長で「この組織は、ココがダメだから直さなきゃ」と張り切ってても「これまでこんな感じでやってこれたんだから良いじゃんか!」と部下が反発したりもするし。こういうのをルーマンは、上司が部下に締め出されちゃってる例として危険だ、と言う。




 こうした分析を面白いなー、と思って読んでたのだけれども、こういうのって日本の企業でばっかり問題にされるのかと思ってたから、ドイツの学者さんがこういう論文を書いてたのも意外でした。この論文に沿うならば、日本的な組織って「非公式的な役割の比重が高い」と論じられるじゃないっすか。飲みニケーション推奨、みたいなさ。で、そういう慣習が「ウザいよね」っていう感で非難される傾向にある、ように思われるのね。その論調はおおむね「欧米はそういうのやってない」、「そういうのは非合理的でスマートじゃない」、「会社なんだから仕事だけすれば良い。別に飲みにいったりプライベートでの関係とか求めてない」とか、そんな感じで。




 でも、非公式的な役割と秩序なんかどんな組織にでも発生するわけ。公式の役割だけに沿って組織が運営されるのも可能だけれど、それはそれでリスキーだよね、だって僕らロボットじゃないですし、心理的な負荷もいろいろとかかるじゃん(非公式的な秩序はそういうのを軽減してくれたりもする)とルーマンも言っている。だから飲みニケーションや、会社の人と仲良くすることが生産性を下げる絶対悪みたいに言われるのも適切ではないのだなー、と思ったりした。





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