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読売日本交響楽団第514回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

曲目:
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ドビュッシー:バレエ音楽「おもちゃ箱」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」 (1947年版)

 指揮:シルヴァン・カンブルラン

まずはマエストロ、カンブルランの常任指揮者任期延長(3年伸びて2016年3月まで)を喜びたい。『音楽の友』による2011年の演奏会ランキングでは、カンブルラン&読響の演奏会が国内オケ最高位、ベルリン・フィルやウィーン・フィルを抑えての第3位を獲得したという。雑誌ジャーナリズムの権威が失墜した昨今どこまで量質が薄くなるのかわからない『音楽の友』のランキングでは、はっきり言ってありがたみがあまりないけども、素晴らしい音楽が真っ当な評価を受けている姿を垣間見れるような気がし、少し安心でる。メジャーなレーベルからリリースしていないことや、現代音楽のスペシャリストという一面を持つことは、カンブルランの演奏会の有難さを霞ませてもいるだろう。メジャーなものは有難がられる。それがブランドとして機能するから。しかし、その影に真っ当なものを隠れさせてはいけない。誰が真っ当なものを決定づけるのか、はさて置き(まさかコンテストを開く、という発想では貧困である)カンブルラン&読響の定期は毎回満席にならないとおかしい、と毎回思うのだ。今年で、読響定期会員3年目、カンブルランの常任指揮者期間をまるまる聴いている私は(今期からS席に復帰)。

さて、2012年度読響定期1発目は、そのカンブルランによるドビュッシー&ストラヴィンスキーという組み合わせ。どの曲もバレエ・リュス絡みの作品という非常に華やかなプログラムだった。《牧神の午後への前奏曲》では、冒頭のフルート・ソロが絶品の響き。弦楽器のバランスや音色も素晴らしく、この作品で微睡むような幻想を印象付けていた。時折、柔らかく下からせり上がってくる低弦へのアクセントも聴きモノだった。メロウに流れるだけでなく、楔を打つような主張を見せてくれるカンブルランの指揮の醍醐味である。

バレエ音楽《おもちゃ箱》は今回聴くのが初めて。バレエ・リュスによって上演されるはずだったこの作品は、第一次世界大戦によって作曲が中断され、オーケストレーションが未完成の状態でドビュッシーが亡くなってしまったため、後年補筆によって完成・初演された、という曰くつきのもの。補筆のせいなのか、それとも晩年のドビュッシーの傾向なのか、作品の性質上のものなのか、《牧神……》や《海》のような幻想的で分厚いオーケストラの響きはなく、一聴しただけではドビュッシーの作品と判別が難しそうな曲である。複雑なリズム(おもちゃ箱をひっくり返したかのような!)はストラヴィンスキーの三大バレエのようだし、登場するたくさんのチャーミングなメロディにはドビュッシーの作品屈指の親しみやすさを感じてしまう。あ、あとなんか菅野よう子の『∀ガンダム』劇伴みたい、とちょっと思いました。時折、オリエンタルなムードになるなかで、コーラングレによる長いソロが超エロく、カンブルランの音楽の緩急自在を堪能できた。

ただ、後半の《ペトルーシュカ》は、前半より1.5倍ほどの大編成になって人が増えた分、音の粒子が大きくなって、リズムのシャープなニュアンスがぼやけてしまったかな、という印象があったのが残念。これが鋼鉄のアンサンブルになったら、世界最強レベルのオーケストラ、ということなのかもしれない。とはいえ前半だけでもかなり満足がいく内容だったし、《ペトルーシュカ》も悪い演奏では全くなかった。次回のこのコンビの演奏も楽しみだ。

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