指揮=下野竜也読響を定期的に振っている指揮者のなかで、もっとも個人的な趣味と合わないのが「正指揮者」、下野竜也。プログラムの組み方は興味深いのだが、なんかいまいちよくわからない指揮者である。 個性がマイルド過ぎる、のか。ドイツの作曲家、アリベルト・ライマン(初めて名前を聞いた人だ)の日本初演は割と古風な現代音楽、といった印象で特別な印象がもてなかったし、シューマンはあのモヤッ〜としたオーケストレーションが、モヤッ〜だけで終わっている感じがし、その奥からサムシングが聞き取れませんでした。2曲目のヴァイオリン協奏曲もオーケストラがひたすらモヤってるだけで、あの美メロ、あの力強さがグッとこない。なんかトロい。若いソリストの音も淡白だったので今ひとつ物足りない(が、さすがに若者。アンコールはパガニーニをバリバリに弾きまくっていて、シューマンだけじゃ弾き足りないかのようでした)。最後の交響曲第2番も、美しいメロディを丁寧に歌わせ、ファースト・ヴァイオリンをこれでもかと主張させていましたが、その主張は全体的なバランス感を失調させていた気が。それがシューマンの狂気的なところなのかもしれませんが、もったいないですよね。せっかく良い曲なんだから。
ヴァイオリン=三浦文彰
ライマン:管弦楽のための7つの断章 -ロベルト・シューマンを追悼して-(日本初演)
シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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