スキップしてメイン コンテンツに移動

ニッコロ・マキャヴェッリ 『フィレンツェ史』



フィレンツェ史(上) (岩波文庫)
マキァヴェッリ
岩波書店
売り上げランキング: 89681

フィレンツェ史(下) (岩波文庫)
マキァヴェッリ
岩波書店
売り上げランキング: 146456
まさか、マキャヴェッリの名前を知らない人はおりますまい。『君主論』という現在ではサラリーマンの自己啓発本のネタにさえ使われる有名な本を書いた政治思想家の彼は、フィレンツェの官僚としても従事しており、この『フィレンツェ史』という上下で1000ページほどのマッシヴな歴史書は、フィレンツェを支配していたメディチ家出身の教皇クレメンス七世から依頼され書かれたものでした。冒頭は「ゲルマン人が攻めて来たぞ〜!」という山川の世界史教科書でいっても最初のほうのページから話が始まり、およそ1000年の時の流れを一気に振り返ります。マキャヴェッリの記述は現代の歴史考証的には誤ったものもありますが、そこには逐一括弧書きて訂正が入っているので親切。メインになるのは14世紀半ばからのフィレンツェで起こった政治抗争と対外戦争についてです。

本書が語るフィレンツェの歴史は、ざっくり言ってしまえば戦争に次ぐ戦争、内乱に次ぐ内乱、陰謀に次ぐ陰謀……という感じであって、ルネサンス期のイタリアの華々しいイメージとはかけ離れた記述が続きます。なにが文芸復興だ、と言わんばかりの血で血で洗う争いの連続。教皇派(グエルファ党)と皇帝派(ギッベリーナ党)との対立や、貴族・豪族・市民・職業組合といった階級闘争、メディチ家がフィレンツェの実権を握ってからもクーデターを企てるものが後を絶たず、民衆が普通に武装していた時代の恐ろしさを感じざるを得ません。今で言うと、気に食わないことがあったらノリで武装した有権者が千代田区にひしめき合ってしまうような感覚でしょうか。近代に入って、軍隊や警察権力が中央集権され、暴力装置として機能する、というカール・マルクスの描いた社会は、暴力が民衆から奪われたことによって去勢された、だけではなく、社会の安定をもたらしたのであーる、ということを実感させてくれます。昔の人は血の気が多すぎていけない。ペストの流行で9万6000人以上の人が死んでも対外戦争が継続されたそうですから驚きです。

文化史的な記述はごくわずか。ルネサンス期の新プラトン主義の中心人物であったマルシリオ・フィチーノや、ピーコ・デッラ・ミランドーラの名前はそれぞれ一度だけ出てくるのみ(前者はコジモ・デ・メディチ、後者はその孫のロレンツォの庇護を受けていました。彼らの業績については『ジョルダーノ・ブルーのとヘルメス主義の伝統』をご覧ください。第4章第5章などがとくに詳しい)ですが、新プラトン主義者たちが自然魔術だ、占星術だなどと言っている間、政治世界は血みどろで、ずっと戦争の世紀だったことがわかると世界史が厚みをもって見えてくるでしょう。

また、本書でキチンと整理されているわけではありませんが、外敵と戦争をやる時のやり方についての記述もとても面白かったです。内紛は都市の内部での勢力争いになりますが、当時の都市や共和国は外部との戦争になると、協力関係にある勢力から傭兵を雇ったりして補強をおこなって戦っていたようです。つまり、戦争時の兵力はアウトソーシングされていて、それを請け負うのが騎士という職業軍人だったわけですね。そこでの補強にはもちろん資金力が必要なわけですが(資金が無くなってくると、お互いもう止めようや、と和平が結ばれたりする)、資金力がモノを言うルールは、現代スポーツの世界にも通じて読めます。ローマ帝国の滅亡から15世紀末までの長いスパンで綴られているので、通史として読むにはなかなか厳しいところがありますが、とても面白かったです。

R0011004
史跡めぐりにまたフィレンツェにいきたくなったり。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...