スキップしてメイン コンテンツに移動

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#15 カブレラ=インファンテ 『亡き王子のためのハバーナ』

亡き王子のためのハバーナ (ラテンアメリカの文学 (15))
カブレラ=インファンテ
集英社
売り上げランキング: 895,646
久しぶりに連載シリーズのエントリーを(この『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む企画、始まったのは2009年である。結婚前の引っ越し前に一気買いしたところからはじまっているのだ……)。第15巻はキューバのギリェルモ・カブレラ=インファンテ(1929-2005)の『亡き王子のためのハバーナ』を収録。カブレラ=インファンテの作品を読むのは初めてでしたが、ここまで読んできたラテンアメリカの作家のなかでもまた色合いの違う作家だと感じました。

原題は『La Habana para un Infante Difunto』、これはもちろん、フランスの有名な作曲家、モーリス・ラヴェルによる《Pavane pour une infante défunte》のもじりですが、先に太字で表している通り、ここにはさらに自分の名前もダジャレで盛り込まれていて、私小説的な性格も持っている。全体はいくつかの部分にわかれていて、とくに前半部分は回想を元にしたビルドゥングロマンス、これがものすごく童貞感の強くて最高です。

かつてのハバナでの生活、過ぎ去ってきた日々、もう既に会うことのできない人々の記憶。こうしたモティーフは、まるでプルーストのようで実際、文字の密度とかを含めて熱帯版『失われた時を求めて』的な様相さえあります。とくに主人公が童貞を捨てたい、女性とセックスをしてみたいという欲求に促され、なんども、さまざまな女性にチャレンジしてみるのだが、それがことごとく失敗していく様が良いんですよ。この寅さん的と言いますか、なかなか叶えられないものに向かって、性的欲望が回転し、それが失望する。もっと下世話な言葉に置き換えるならば、勃起してても毎回中折れして煮え切らない、でも、そのフラストレーションこそが小説の素晴らしいポイントだ、っていう。

また、プルーストがさまざまな文化やモードを小説のなかにバンバン取り入れていた野に対して、カブレラ=インファンテは映画や音楽などのポップ・カルチャーを取り込んでいく。あたかも、小説内で批評をやるかのようにそうした小説の外部が小説の内部に組み込まれているのも面白いんですよね。とくに映画については、かなり思弁的で。ハリウッド映画はもちろん、ルイス=ブニュエルについてもガッツリ言及されているのも気になってくる。

ただ、中盤を過ぎたぐらい、とくに主人公が童貞を捨ててしまった後から、別な小説なのでは、というぐらいに様子がおかしくなっていきます。特に後半。童貞小説からギアが切り替わって、さまざまな女性と主人公の逢瀬のなかで、ゴシックであったり、トロピカルなファンタジーの見せ方が増加していき、最後はなんだか悪夢的な投げっぱなしジャーマンで締める凶悪な展開。しかも、長い。これは好きじゃないと読み切れないかもしれません。なんかねー、村上春樹の小説みたいな感じになるんですよ。南国のプルーストから、まんま春樹に。身体に欠損のある女性とのセックスとかあってさあ……。

衝撃のラスト・シーンの、う、ううぇ? という戸惑いは、ホントに読んで味わっていただきたいばかりだけれど、ひとつアレに解釈を与えるならば、男はみんな子宮回帰願望をもっている……ってことなんだろうか……。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...