スキップしてメイン コンテンツに移動

池田玲子 『ヌードと愛国』

ヌードと愛国 (講談社現代新書)
池川 玲子
講談社
売り上げランキング: 21,806
20世紀初頭から1970年代のあいだに現れたヌードという表彰に対して、与えられたナショナリズムを読み解く、という新書。サイズはコンパクト、軽妙な語り口だがなかなか読み応えがある内容であった(著者の池川玲子は若桑みどりの門下)。高村智恵子や、竹久夢二、石岡瑛子といった著名な作家の作品も扱われていて(通史的なものではないけれど)ヌードの意味の変遷をも感じ取ることができる。

明治維新以降、国家成熟の指標としての美術を積極的に取り入れるなかで、裸体のデッサンが重要視されていく。いわばサブカル・アートのひとつであった春画のなかでしかありえなかった裸体の描写が、ガチガチのハイ・アートに格上げされるその過程で起こった対立だとか興味深いと思ったし、寡聞にしてわたしは高村智恵子という人が画家として身を立てることを目指していたことを本書で初めて知ったんだけれど、掲載されている彼女の作品のなかにはマリー・ローランサンみたいなものがあったりして面白い(『青踏』の有名な表紙もこの人なのね)。

個人的にもっとも惹かれたのは、満州でプロパガンダ映画を製作した日本初の女性映画監督、坂根田鶴子の章だった。この章では、戦時中の農村女性に期待された役割(戦力や工業労働に取られて不足した男性の労働力を補うために、女性が農業の中心的主体になる)についても触れられているんだけれど、その状況は、今言われてるような「女性の活用」みたいな話とまったく同じに思える。で、当時は結婚しても、ダンナはいなくて、舅姑小姑にこき使われる。そんなのは嫌だ! だから満州に行こう!! っていう女性がいたんだって。

そこで坂根が撮った『開拓の花嫁』(日本映画史で初めて授乳する女性の姿が映された映画らしい)というプロパガンダ映画なんだけれど、彼女は満州を「男女が手をとりあって、一緒に子育てして(男性も育児参加をする)新しい国を作ってまっせ」というユートピアとして描く、でも、それはもちろん嘘っぱちだったし、故郷の舅姑小姑にこき使われる方がマシだったかもしれない過酷な現実が横たわっていたことを本書は伝えている。舅姑小姑がいない、その新しい共同体には妊娠・出版・育児のナレッジが蓄積されてない。幼児死亡率や異常妊娠・異常分娩の割合が高くなるし、移民数がめちゃくちゃに多かったから医者も足らなくて大変、みたいな状況だったそう。

んー、すごい。面白がっちゃいけない話かもしれないけど、昔のこうした失敗プロジェクトの無茶苦茶さにどうしても惹かれてしまう。ちょっとこの方面について調べてみたい気持ちにもなった。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...